新しい未来研究所で聞いたバンダイナムコエンターテインメントが目指す未来像、大下聡社長インタビュー 2ページ目 | GameBusiness.jp

新しい未来研究所で聞いたバンダイナムコエンターテインメントが目指す未来像、大下聡社長インタビュー

バンダイナムコグループの中核としてゲーム事業を担うバンダイナムコエンターテインメントはグループ統合以来の社名から社名変更に踏み切ったのに続いて、この春から田町の新しい未来研究所に移転し、新たなスタートを切りました。

企業動向 戦略
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グループ各社を渡り歩いた異端児



―――大下さんは山口県出身で、東京の大学を出て、新卒でバンダイに入社されたと聞いています。

僕は元々教師をやりたくて、世界史と日本史、社会一般の免許も持ってるんです。旅行が趣味で、社会人になったら長い休みは取れない、でも学校の先生なら春夏秋冬のお休みがある、とかなり不純な動機ですね。採用試験は受かったものの、長い順番待ちがあるんです。欠員があれば順繰り採用されていく。それが100番目だとか言うわけです。いつかは入れるけど時間がある、ということでたまたま受けたバンダイに入ったのですが、教員になる夢はずっと持ってましたね。サラリーマンは朝から晩まで働いて、休みが少ないでしょ? (笑)



―――バンダイを受けた理由というのは?

偶然です、偶然。たまたま合宿所で新聞をめくっていたら求人が載っていて、しかも交通費を出してくれるというんです。当時のお金でもちょっとした額で、行くだけで儲かるなと(笑)。当時は陸上をやってて、賞なんかも持ってたから、履歴書に書いて総務に持っていって、採用試験を受けたら、なんとその日に合格を貰って「君いいね、来てくれる?」と言われて、ここで断ったら交通費は貰えないかな? とか考えながら「分かりました」と応えて。それで人生が決まったわけです(笑)。実は日商簿記一級も持っていたので、それも良かったかもしれません。

―――最初の配属はどちらだったのですか?

面接の時に一芝居打ったんです。「僕は赤面症なので、人と会うのがダメなんです。でも日商簿記も持ってるから経理や総務では活躍すると思います」でも、入社式の日に創業者の山科直治から告げられたのは模型部でした。要はプラモデルの担当ですね。模型部で最初の仕事は返品の仕分けです。戻ってきた商品を仕分けして記録していく。これをひたすら1年間。教員の採用通知を待ったのですが、待てど暮らせど連絡は来ない。

2年目は貿易でした。海外からプラモデルを輸入する仕事ですね。20代では必ず会社を辞めようと思っていたのですが、暫く仕事をしていると任せられるようになって「君、出来るよね」って褒められたり、リーダーにされて部下を付けられたりして、もう少しは居なくちゃいけないかな? と思って4,5年経った時には諦めましたね。その頃になると「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」が出てきて、その後「機動戦士ガンダム」が登場するんですが、売れに売れて。それで何となく楽しくなってきました。

―――そこから社会人人生が軌道に乗っていくわけですね

いや、そうはならなくて(笑)。31歳の頃かな、辞表を出したんです。入社して10年近く模型部に居て、最初の約束と違うじゃないか、それなら自分で商売をしてやろうと。当時のバンダイ社内ではよく論文の公募があって、ニュービジネスについての論文で佳作を取ったんです。「何年も配置転換をお願いしてるのに聞き入れられないから、この佳作を取ったビジネスに挑戦するから辞めたい」と。そうしたら当時の役員に事業計画持って来いと言われて、辞めるのに何でだと思いながら持っていったら、2,3枚読んでベリベリベリと破られて「お前やめとけ、これは潰れるわ」とやられるわけです。「いや違うんです、可能性を感じているから是非挑戦したいんだと」食い下がっても、駄目だと。それでもう少しやることにしたんです。

それでトイ事業部に異動になって玩具の仕入れをやることになったんです。それでも辞めたくなって、自分で商売やります、と言ったら、僕の新入社員からの上司でのちに副社長までなった人が当時は静岡で工場長をやっていて、今すぐ来いと。そして「辞めるな。お前が辞めるなに俺も辞める」って言うわけです。訳が分からないですよね、でも役員一歩手前まで来てる人が自分にそこまで言うなら無理だと思って撤回したんです。

そうしたら次は札幌の札幌営業所長をやれと。それまで玩具を売った経験は無かったのですが、色々新しい施策を打ったり、得意先を回ったり、楽しくやらせてもらいました。でも1年半くらい経ったらもう戻って来いと言うので2回くらい断りながら、東京の営業所統括の部長をやって、その後、マーケティング部長をやりました。

―――その後はあの「ワンダースワン」にも携わったそうですね

暫く営業系をやっていたのですが、次は事業部をやれということで、エレクトロニクス事業部でキッズ向けのパソコンを担当しました。その頃から、半導体や電子部品に関わるようになり、台湾で製造現場に行ったりするようになりました。そこを2,3年やってからゲームです。

ゲームを扱うコンシューマ部では、「ワンダースワン」という携帯ゲーム機のプロジェクトがあるからそれを担当しろと。もしかしたら勝機があるかもしれないと立ち上がったプロジェクトでしたが、いきなり『ポケットモンスター』の大ヒットで「あちゃー」となりましたけど(笑)。自分も諦めなかったので、暫くは続けましたよ。

次はバンダイネットワークスの社長をやりました。バンダイネットワークスは、i-modeのコンテンツをやっている部隊がスピンアウトした会社で当初から上場するという目標もあって、起業家精神がある会社なんです。現場の社員も「上場を目指しているから頑張れるんだ」という意気込みなんですね。それで最初にやったのが上場。バンダイとナムコが経営統合してから、バンダイナムコゲームス(当時)とバンダイネットワークスも合併した方がいいんじゃないかという意見も出てきましたが、僕は反対しました。彼らはゲーム会社じゃないですよ、と。もっと最先端を行っていて、将来はもっと重要なキーになる会社だと思ってたんです。

でも最終的にはTOBをかけて上場廃止にしてバンダイナムコゲームスと統合ということになるんですが、正直、あれは勿体無かった。携帯コンテンツから始まって、eコマースをやって、もうすぐSNSも始めるくらいのタイミングだったんです。これからはネットワークコンテンツがいかに重要かと言ったものの、当時はそれを理解して聞き入れてもらえなかったのは残念でしたね。

―――バンダイネットワークスの後はバンダイビジュアルに行かれたのですね

初体験の映像制作に飛び込んで、映画を年間50本近く観てどっぷりはまって楽しかったですね。最初は大赤字だったのが、何とか持ち直していけて。そのうちまた戻れと言われるのですが、今度こそ嫌だ、と(笑)。でも頼むと石川さんにも何度も説得されて、それで2012年からこちらの社長になりました。
《土本学》

メディア大好き人間です 土本学

1984年5月、山口県生まれ。幼稚園からプログラムを書きはじめ、楽しさに没頭。フリーソフトを何本か制作。その後、インターネットにどっぷりハマり、幾つかのサイトを立ち上げる。高校時代に立ち上げたゲーム情報サイト「インサイド」を株式会社IRIコマース&テクノロジー(現イード)に売却し、入社する。ゲームやアニメ等のメディア運営、クロスワードアプリ開発、サイト立ち上げ、サイト買収等に携わり、現在はメディア事業の統括。

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