家業再興への想いからマイコンとの出会い、そして世界的なゲーム会社へ・・・コーエーテクモホールディングス襟川陽一社長インタビュー | GameBusiness.jp

家業再興への想いからマイコンとの出会い、そして世界的なゲーム会社へ・・・コーエーテクモホールディングス襟川陽一社長インタビュー

コーエーテクモホールディングスの舵取りを行う代表取締役社長・襟川陽一氏。同氏は創業から現在に至るまで、クリエイターとしても活躍している異例の人物です。その生い立ちから会社の現状、そして未来の戦略までじっくりお聞きしました。

企業動向 戦略
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日本のゲーム史を語る上で外せない老舗メーカー、コーエーテクモホールディングス。1978年にコーエーを創業し、2009年にコーエーテクモホールディングスを設立。『三國志』『信長の野望』『アンジェリーク』など、数々の人気シリーズで親しまれています。そんな中、創業当時から代表取締役社長として同社の舵取りをおこなっている襟川陽一氏。創業から現在に至るまで、クリエイターとしても活躍しているという、異例の人物です。その生い立ちから会社の現状、そして未来の戦略までじっくりお聞きしました。

(聞き手:黒川文雄、文:松木和成)

マイコンとの出会いがコーエーのルーツ



――本日はよろしくお願いします。いきなりですが実は私(黒川)、妹さんの襟川クロさんとは映画に携わっていた頃に一緒に仕事をさせてもらったことがあるんです。

襟川:なんと、そうなのですか。彼女は映画パーソナリティをやっていますね。

――妹の襟川クロさんは映画の道に進まれましたが、襟川社長はゲームの道に進まれました。そのあたりは、襟川家独特の文化的なものがルーツにあったのでしょうか?

家で特別な教育を受けたという記憶はないのですが、やりたいことは自由にやらせてもらえた家庭でした。それが20代30代になって、自分の好きなものが仕事に結びつくきっかけとなったのかもしれません。

――とはいえ、一時期は実家の家業(染料工業薬品の販売会社)をされていた時期もあるとお聞きしたのですが、家業を継ごうとご自身で思っていたのですか?

私は3代目に当たるのですが、「3代目は後を継いで当然」という育て方をされてきました。しかし、それに対する反発心があって、家業を継ごうという考えはあまりありませんでした。それでも後を継ぐことが襟川家から期待されており、やむなく始めたのです。それで、父の会社の取引先の会社に4年半勤めて、その後、染料工業薬品の販売会社を営んでいる父の会社に入りました。しかし、繊維産業の不況の中でもがき苦しんで、最後は廃業になってしまいました。

――その中でビジネスソフトを使うこともあったかと思うのですが、それが襟川社長のマイコンとのルーツになるのですか?

父の会社の廃業後、あまりやりたい仕事ではなかったはずなのに悔しさがあったんです。それで、自分で家業を再興してみようと考えました。父親が一生懸命やって失敗したのに、息子ができるはずがないんですけれども(笑)。それで1978年に立ち上げたのが、光栄という会社なんです。私が27歳のときに設立した会社でした。ただ、会社といっても、営業と2人で始めたので、個人商店みたいなものです(笑)。非常に無謀で勝算は全くなかったですね。今考えると若気の至りです。経営計画やマーケティング戦略もなく、とにかくがむしゃらに、売って売って売りまくるという感じでした。けど、赤字続きになり、「自分には経営者の才能はないんだなあ」と思っていたのが、1980年のときですね。そのときに偶然出会ったのがマイコン(現在のパソコン)なんです。

――そのマイコンは奥様からプレゼントしてもらったという話を目にしたのですが?

マイコンは欲しい欲しいとは思っていたのですが、当時のお金で30万円近くする高価なものだったんです。会社は儲かっていないですし、とても買えるものではなくて。個人のお金もすべて会社につぎ込んでいましたし。それで、「欲しいけど買えないなあ」という話を妻と食事をしたりしながらしていたら、妻がポンと買ってくれたんです。それは本当に嬉しいことでした。彼女は家がお金持ちだったんです(笑)。

――上手く行かない時期は奥様のサポートが大きかったのでしょうか?

そうですね、非常にサポートをしてくれました。それで、せっかく買ってもらったので、財務管理や在庫管理、見積計算など、いろいろなソフトを作って、会社の合理化に役立てようと。2人の会社なので、そんなもの全然いらなかったんですけど(笑)。一時期は、工程管理などの受託開発もやっていた時期がありました。ただ、ゲームを作って自分で遊ぶのが一番楽しかったですね。ゲームをいくつか作っている内に面白いゲームが出来上がったので、それを試しに通信販売で売ってみたら非常に売れたというのが、ゲームの仕事のスタートです。

――襟川社長は文系の出身ですが、プログラムを学ぶ苦労はありましたか?

独学でプログラム言語の勉強をしましたが、ものすごく楽しかったです。私とパソコンとの相性が良かったんでしょうね。100%ハマってしまいました。

――失礼ながら、襟川社長は現役最高齢のクリエイターでありつつ、同時に会社も経営されていらっしゃいます。日本でも珍しいタイプの経営者になるのではないでしょうか?

確かにそういった方は少ない方かもしれません。日本ファルコムさんの加藤正幸会長もその数人の内のお一人ですね。

――ゲームを売り始めたころに、『川中島の合戦』を手掛けられていますが、やはり歴史的なものは元から好きだったのですか?

はい、好きでした。私は足利尊氏ゆかりの栃木県の足利の生まれなのです。そのため、身近に歴史的な建物や遺跡がたくさんあり、昔から歴史と接するのが好きでした。

――襟川社長の文化的な素養とマイコンとの出会いが化学変化を起こしたのですね。

そうですね。ゲームを作るのなら、歴史関係のゲームを作ろうという構想は、ずっと持っていました。テレビや映画、小説は受け身ですけれども、ゲームの場合はインタラクティブですから、自分が関与しながらドラマが生まれ、そして楽しさが生まれていくものです。自分が上杉謙信や織田信長になったら楽しいだろうなと考えていました。

――ゲームはある種の能動芸術だと思うのですが、当時、歴史シミュレーションゲームに類するものは他に何かあったのでしょうか?

なかったですね。その当時は、インベーダーゲームやパックマンなど、アクションゲームが主流でした。私も100円玉をテーブルの上に積んで楽しんでいました(笑)。それはそれで楽しいんですけど、自分としては、じっくり考えて遊ぶようなゲームを求めていました。


《松木和成》

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