ゲームも舞台も好調のマーベラスが打つ次の一手・・・マーベラス中山晴喜会長インタビュー | GameBusiness.jp

ゲームも舞台も好調のマーベラスが打つ次の一手・・・マーベラス中山晴喜会長インタビュー

企業動向 戦略

ゲームも舞台も好調のマーベラスが打つ次の一手・・・マーベラス中山晴喜会長インタビュー
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ゲームや音楽・映像事業だけでなく、ミュージカル『テニスの王子様』をはじめとした漫画やアニメ、ゲームを原作とした2.5次元ミュージカルでライブ・エンターテイメントの世界でも躍進を続けるマーベラス。創業者で会長 兼 社長 CEOを務める中山晴喜氏に、同社設立からの経緯や、今後のエンターテイメントコンテンツの展望についてお話をお聞きました。

(聞き手: 黒川文雄)

新卒でバンダイに入社、ビジネスの真髄を学ぶ



―――まずは中山さんご自身の経歴からお聞かせください。中央大学卒業後にバンダイ(現バンダイナムコ)に入社されましたが、それは何か理由があったのでしょうか。

当時はバブル期で就職しやすい環境でして、バンダイの他に大手人材会社や広告代理店、レコード会社などを受けていました。内定を3つ頂いたんですが、その中で1番最初に内定をくれたのがバンダイだったんです。そんなに就職活動をする気もなかったので、すぐに承諾書を出しました。

―――玩具やホビーにそれほど興味があったわけではなく・・・

全然興味がなかったですね。唯一真面目に考えていたのは、最初に就職するのであれば、工場もあって、企画もあって、モノを作っていて、流通もあるオーソドックスな会社の方が1番つぶしが効くかなというところです。最初からソフト産業や人材会社のように人材に特化した会社よりは、形があるところがいいかなという意識はありました。いろんな意味でネガティブでしたね。家から浅草まで通勤するのは遠いな、とか。今思うとバンダイはすごく良かったんですが…。

―――当時のバンダイは、トイやホビー、プラモデルといった様々な部署があったと思いますが、入社当時はどのような仕事をされていたのでしょうか。

当時のバンダイは、大きく分けてトイ事業と新規事業の2つに分かれていました。トイ事業の玩具第1事業部が男児玩具、玩具第2事業部が女児玩具、そして玩具第3事業部と呼ばれていた部署が今でいうゲーム事業部だったんです。僕がいた新規系というのは、玩具菓子を扱っているキャンディ事業部や、アパレル、カード・ガシャポン、ライフという雑貨とかをやっていた部門がありました。僕はキャンディの営業部で外回りばかりで、かなり過酷でした。玩具業界ではメーカーが強かったのですが、お菓子業界は真逆で流通が強いんです。なぜかと言うと、日本のお菓子業界は煎餅業界から始まっているんですよ。煎餅は特徴がなくブランディングができないので、営業して価格を安くしてスーパーの棚に置いてもらうというように、足繁く営業するという業界の名残があるので、圧倒的に流通が強いんですよ。だから、小売りが1番、問屋が2番、メーカーなんて最後みたいな感じでした。

―――当時のバンダイはお菓子業界のトップリーダーではなかったですよね。

玩具の営業と違っていたので、バンダイから行くと凄く違和感があって大変でした。すごく過酷で、守備範囲も広いんです。まず都内にお菓子問屋がないんですよ。都内だと倉庫を構えるのがもったいないので、問屋である取引先は千葉とか大宮だったり、柏にもありました。静岡も僕が担当でした。しかもそれらは電車で行けるような場所にないので全部営業車で回っていました。大体、月に3000キロを営業車で走っていて、タクシーの運転手さんのようでした。

朝8時に千葉のスーパーの手伝いに行ったりと。当時は、改装と言って売り場や棚の入れ替えの際には全部メーカーの営業を呼んで当たり前のようにやっていたんです。現在では、大手量販店が率先してメーカーに手伝わせるのはやめようと働きかけて無くなったのですが、当時はこのようなことをしていかないと、商品を入れてくれない、そういう時代でした。

酷いときは、浅草から千葉のスーパーに前日の夜のうちから行って、駐車場で寝て待っていたこともありました。朝になると同業者の方がコンコンと車の窓を叩いて「バンダイさん、始まるよ」って起こしてくれるという、そんなこともありました。ただ、全然嫌ではなかったですね。大学に比べれば全然良かった。大学が本当に嫌いで行くのも嫌だったので、それに比べたら仕事は結構面白いしお金も貰えるしで、営業をやってた2年間はすごく楽しかった。

―――営業での2年間のあとは違う事業部ですよね。

海外本部でした。香港を担当させてもらっていたのですが、生産のことから、シッピング、マーケティングや、あと当時ガシャポンを香港で新規導入をやっていたので商標をとったりとか金型を送ったりと、広く浅くいろいろ学べたので、いい経験となりました。

あと、ビジネスプランを作ったり、版権の交渉や版元さんにいって監修を受けたりと、バンダイ本社がいくつものセクションでやっていることを香港担当というだけで全部やらないといけない状況でした。商標や著作権法のことや、貿易実務とか事業計画の立て方などもその時に学んで、いろいろなことが分かるようになったんです。

セガのキャラクタービジネスの先鞭をつける



―――そこでまた2年くらい働いてセガに行くわけですが、中山隼雄社長(中山氏の実父)がいらしたからというのは理由にあるのでしょうか。

バンダイはすごく楽しかったので、僕は辞めたくなかったのですが、母親がガンになり、「親子で働いている姿を1度は見てみたい」と言われ、その想いは叶えてあげたいと思ったんです。もともとセガに行きたいとは考えてなかったのですが、あの頃はゲーム産業にすごく明るい未来が待っている雰囲気がありましたので、会社としてゲーム会社って面白いな、とは思っていました。

僕がバンダイに入ったときはセガは小さい会社だったのですが、転職する頃にはセガは毎年1000億円くらい売り上げが伸びていて、バンダイを抜いていたんですよ。そういうのを横で見ていたので、自分も海外担当をやっていたし、海外市場で成功しつつあったセガでまた違う仕事ができるかもしれないという期待感はありました。それはセガでなくても良かったのかもしれませんが…。

―――セガには1993年に入社されていますが、当時はどんな雰囲気だったのですか?

バンダイとは真逆の会社でした。バンダイはファミリー的な会社でベンチャーから這い上がってきた感じで、温かみがある反面で閉鎖的なところもあった。中途入社の人も少なかったですし。それと比べると、セガは元々外資系で、その色を残していて、一体感というよりは腕に自信のある人が集まって仕事をしているイメージでした。人の出入りも激しかったですね。

―――93年頃はメガドライブがメインだと思うのですが、中山さんはキャラクタービジネスを中心にやられていたと聞きます。やはりバンダイの香港時代の経験が生きたのでしょうか?

そう思います。最初にキャラクター部というところに入ったときは、セガがちょうどTVアニメの『BLUE SEED』の版権を取得していろいろやっていた頃で、その関係でキングレコードの大月俊倫さん(プロデューサー、元・キングレコード専務取締役)と知り合いました。

会っていろいろとビジネスの話をしている中で大月さんが持ってきたのが、たった一枚の『新世紀エヴァンゲリオン』の初号機の線画でした。「今度こういうのやるんだよ」という話で、「じゃあうちもかませてくださいよ」と話したら、「ゲーム化権を取るんだったらいいですよ」となり、お願いとして「他のプラットフォームから出ないようにセガの独占にしてくれませんか」と話したら、「こんな線画でその場で決めてくれるのだからそうするよ」と言ってくれてOKになったんです。だから『エヴァ』は初期の頃はセガからしか出てないんですよ。おまけでフィギュア化の権利もつけてくれて、両方大成功しました。

―――私も中山さんと同じ時期にセガにいたのですが、キャラクターライセンスという概念があの当時から急速に伸びて、それがビジネスになっていった感じがしますよね。

それまでセガはあまりキャラクターものをやってませんでしたしね。あの後、『魔法騎士レイアース』をはじめ様々な版権ものを取り扱いました。

―――メディア側からしても、急にセガのライセンスや、版権に対する考え方が変わったっていう話を聞きました。

僕が入った頃は何も整備されていなくて、理解し難いような額のMG(ミニマムギャランティ)でライセンスを取ってきていたりしていました。年末の大掃除で棚を開けたら大きい箱が出てきて、何かと思ったら全部有価証券である「証紙」(※ライセンス商品に貼る認定シール)だったこともありました…そんな状況でした。MGを払っても製品化できなかったり、MGを払った分だけ生産してしまうような状況もありました。在庫に対する考え方が甘かったんです。比較する訳ではありませんが、バンダイはさすが玩具会社でその点はとても厳しかったですね。

それから版権運用マニュアルを作って、社内に配り徹底していきました。監修のやり方や、版権を取る際の申請書も作って、キャラクター部を経由させるようにしました。申請書に販売計画とMGの希望とかをすべて書いてもらい、誰の責任で、どういう目論見で計画しているのかを明確にしていきました。仕組みを作っていく作業でしたので大変でしたが、やり甲斐はありました。

次のページ: メディアミックスのビジネス化のためにマーベラスを起業

《Daisuke Sato》

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