成功の鍵は"共犯者"を増やすこと―スクエニ 時田貴司氏の芸夢魂を紐解く秘蔵オフラインイベント「第13回クリエイターヒストリア」特別レポート | GameBusiness.jp

成功の鍵は"共犯者"を増やすこと―スクエニ 時田貴司氏の芸夢魂を紐解く秘蔵オフラインイベント「第13回クリエイターヒストリア」特別レポート

2023年8月4日、池袋としま区民センターにて『第13回クリエイターヒストリア~スクウェア・エニックスの時田プロデューサーが語る「すべての表現はゲームに通ずる」クリエイター論~』が開催されました。

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『第13回クリエイターヒストリア~スクウェア・エニックスの時田プロデューサーが語る「すべての表現はゲームに通ずる」クリエイター論~』
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2023年8月4日、池袋としま区民センターにて「第13回クリエイターヒストリア~スクウェア・エニックスの時田プロデューサーが語る『すべての表現はゲームに通ずる』クリエイター論~」が開催されました。

『ライブアライブ』などを手掛ける時田貴司氏をゲストに迎えオフラインで行われた、来場者だけが楽しめる秘蔵の本イベントを、今回特別にレポートでお届けすることが決定!2時間近くにわたるイベントで濃密に語られた、時田氏の”芸夢魂”のルーツや成功の秘訣をお届けします。

イベントに登壇した時田貴司氏(写真左)とモデレーターを務めた宮田大介氏(写真右)

ゲスト

スクウェア・エニックス
第2開発事業本部ディビジョン6 プロデューサー
時田貴司

モデレーター

ゲームクリエイターズギルド主宰
宮田大介

時田貴司氏のルーツを遡る!

本イベントは、モデレーターの宮田氏が時田氏のルーツから現代までを紐解くクリエイター向けのセミナーイベントです。セミナーと言っても、ここだけのお話を交えながら終始フレンドリーかつ和やかなオフライントークイベントのような雰囲気で行われました。最後には来場者や学生からの質問に時田氏が答える貴重なコーナーも。早速、時田氏の少年時代から振り返りましょう。

時田貴司氏と振り返る1980~2022年

1980年 漫画・アニメがエンタメの主流となり始めた学生時代
1986年 グラフィックデザイナーとしてスクウェア入社
1994年 『ライブアライブ』開発で初ディレクション
2000年 さまざまなタイトルに関わりディレクター・プロデューサーを歴任
2022年 30年の時を経て「ライブアライブ」リメイク開発

ヒストリーポイント① 1980年 時田氏が子供の頃目指していた職業とは?

1965年1月24日生まれの時田少年が夢中になったものとは?

まずは少年時代に夢中になったものから、入社から37年間ゲーム作りを続けているスクウェア(現 スクウェア・エニックス)との出会いを振り返ります。

その頃ゲーム業界は...
1978年6月 タイトー『スペースインベーダー』登場
1980年4月 任天堂初の携帯ゲーム機シリーズ「ゲーム&ウオッチ」発売
1980年7月 ナムコ(現 バンダイナムコエンターテインメント)『パックマン』登場
1983年 任天堂初のカートリッジ交換式ゲーム機「ファミリーコンピュータ」発売

漫画家を目指した少年時代

『週刊少年ジャンプ』が創刊されたのは時田氏の誕生から3年後の1968年。その売り上げが300万部を突破した1980年、15歳の時田少年が憧れていた職業は漫画家でした。

一冊で様々なジャンルの作品を擬似体験できる少年漫画の楽しさに幼稚園の頃から没頭し、デッサンの知識もなにもない中ケント紙とペンを買い揃え、見様見真似で漫画を描いていたといいます。なんと『少年サンデー』に投稿した作品が一次先行まで通ったこともあるそうです。漫画作りはキャラクターやお話を考えるのが好きで、ネームを描くまでは楽しいのですが、背景を描くのが苦痛だったというエピソードが語られました。

漫画の魅力の一つとして「自分のペースで噛み砕きながらページをめくることができる」と語る時田氏。初めて演出を担当した『ファイナルファンタジーIV』でセリフを効果的に小分けし、プレイヤーに”自分でページをめくるような体験”を実装した繋がりが垣間見えます。

「小学生の頃この作品に会えてよかった」と語る一番印象に残った作品は永井豪氏の『デビルマン』。テレビアニメ版で知り漫画版に手を出し、その内容の差に衝撃を受けて「性悪説を植え付けられた」と言います。漫画家になる夢は形を変えましたが、のちの『ライブアライブ』にもオマージュしたシーンやテーマが登場するなど、『デビルマン』は時田氏の物作りに根付いているのかもしれませんね。

その6年後の1986年、21歳の時田氏はその後37年間在籍することになるスクウェアに入社することになります。
現代はゲームもアニメも一般的ですが、1980年は『スペースインベーダー』が世の中で大旋風を巻き起こしたデジタルゲームの黎明期。ここから一体どのようにゲーム業界に導かれたのでしょうか?

ヒストリーポイント② 1986年 ゲームグラフィックデザイナーとしてのキャリアをスタート

スクウェアと出会ったきっかけとは?

小学生として漫画とテレビアニメが映画やテレビに次ぐサブカルチャーの一部になっていく様子を目の当たりにした時田氏。漫画家になりたかった時田少年は、その後役者の道を目指し、アルバイトでゲーム業界に入ることになります。

漫画を読むときに脳内でキャラクターの声をイメージしたり、友達同士で役をキャスティングして読み合い楽しんだという時田氏は、小学生時代に演劇部に所属していました。漫画制作の大変さと、演劇部でお話を作り演じる楽しさを体験した時田氏は、テレビアニメで声優の存在を知り、演者を目指します。

高校2年生で劇団白鳥座の研究生になり、高校卒業後は神奈川県から上京し、アルバイトをしながら演劇に全力投球の日々。演劇の街・下北沢で家賃23,000円トイレ共同のマンションに住み、劇団に通いながらバイトを探していた時田氏の目に、「六本木でゲームのグラフィックデザイナー募集」という魅力的なワードが飛び込みます。漫画を描いていた経験も活かせるうえ、せっかく働くならクリエイティブな仕事がいいと考えた時田氏は早速応募。スクウェア入社2年前の1984年、ここから2年間「ZAP」というゲーム会社でMSXやPC用ゲームのグラフィックデザイナーとして働くことになります。

ZAPはバンドメンバー同士で立ち上げたという少数精鋭の会社で、経理担当が完成したゲームにSEと音楽もつけるなど兼ね役で回していたとのこと。たまたま抜けたグラフィックデザイナーの穴を埋めた時田氏でしたが、辞める頃には総勢30人ほどの会社に成長していたといいます。

初めてゲーム作りに触れる時田氏にとって「ZAP」は実践しながら覚える専門学校のようでもあり、1作品のドット絵を全て描いたときには作中のオブジェクトが夢にまで出てきたそうです。当時は同じ会社に山名学氏や内藤寛氏も在籍していたといいます。(参考:時田氏が当時を振り返る投稿)

『キングスナイト』でスクウェア入社!『ドラクエII』の衝撃!

1986年のある日、時田氏は『キングスナイト』のTVCMを観て、当時のゲームCMとしては珍しい実写の映像に衝撃を受け、当時アルバイトから社員に昇格していた「ZAP」を辞め、スクウェアにアルバイトとして入社します。時田氏曰く、当時のスクウェアは「坂口博信氏と田中弘道氏が渋い本格派RPGを制作していた」印象で、時田氏がグラフィックデザイナーとして参加したタイトルにはファミリーコンピューターの「ファイナルファンタジー」シリーズ、『半熟英雄』、『スクウェアのトム・ソーヤ』、ゲームボーイ『魔界塔士 サ・ガ』などがあります。

スクウェアに転職するも、ゲーム制作はあくまでもアルバイトだと考えていた時田氏。そんな中、元同僚の山名学氏に「黙って1時間遊んでみろ」と薦められた『ドラゴンクエストII』をプレイし、その考えを大きく変えます。さんざん探したサマルトリアの王子に「いやー さがしましたよ」と言われ、「ふざけんな!それはこっちのセリフだよ!」と、ゲームを自らの指でプレイすることにより、映画を観るよりも強く感情を動かされる体験をし、感動したのです。

ゲームは自分が演劇で実践しようとしていたシナリオや演出はもちろん、映像表現や音楽など、表現したいことが全て実現でき、まだ開拓されていない新しいフィールドなんだと気付いた瞬間でした。

ヒストリーポイント③ 1994年 『ライブアライブ』初ディレクション

当時としては珍しいオムニバス構成のRPGはどうして生まれた?

当時のRPG作品例
1991年7月 『ファイナルファンタジーIV』発売
1992年2月 『ロマンシング サ・ガ』発売
1992年9月 『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』発売
1992年12月 『ファイナルファンタジーV』発売
1993年2月 『ロマンシング サガ2』発売
1994年4月 『ファイナルファンタジーVI』発売
1994年9月 『ライブアライブ』発売

1991年、『ファイナルファンタジーIV』制作時よりアルバイトから社員に昇格した時田氏。グラフィックデザイナーからプランナーにジョブチェンジし、ストーリー周りの実装や脚色を担当するようになります。

プランナーを担当するのは初めてでしたが、グラフィックデザイナー時代から、企画段階はプログラマーやデザイナーも共に集まってアイデアを出し、決定したらそれぞれの作業をしていたため、自然とディレクションの力も付く恵まれた環境だったといいます。グラフィックに関しては、ファミリーコンピュータの時代は1人でもなんとか担当できたのですが、スーパーファミコンが登場し色数も増え作業は大変に。また、新入社員として「絵がべらぼうに上手くてドット絵も描ける」野村哲也氏が加わるなどの変化もあり、時田氏は「グラフィックは彼らに任せよう」と考えたそうです。

そして1994年、時田氏に転機が訪れます。スーパーファミコンで新たに立ち上げるオリジナルRPGのディレクションを担当することになったのです。それがのちの『ライブアライブ』です。

デザイナーからプランナー、プランナーからディレクターへ

当時は空前のRPGブーム。ROMカートリッジの容量も増えて「FF」や「ドラクエ」をはじめとした多くの作品が乱立する中、時田貴司氏は”どう差別化するか”が勝負だと考えました。

先人たちが作ったRPGゲームを遊んでいる中で、西部風や和風などの要素が断片的に組み込まれていることに気付き、「これは別々にした方が活きるのではないか」と考えた時田氏は、同じ要クリア時間30時間の作品でも、一本道ではなく好きな順番で楽しめるオムニバス形式にすれば「ちょっと遊びたいときにも楽しめる。これは発明だ!」と思い付きます。そして「FF」に天野喜孝氏、「ドラクエ」に鳥山明氏がいたように、章ごとにキャラクターデザインを変えればオールスター感も出ると考えたのです。

通常であれば7本分のRPGゲームを制作できるであろうところ、あえて各章を短くし映画作品のようなインパクトを出し、プレイヤーは1本のゲームで西部、現代、SFと、違う世界でそれぞれの主人公を演じる楽しみを得られるように構成。単なるオムニバス作品にならないよう、宣伝部も巻き込んでプレイヤーがびっくりするような仕掛けも作りました。小学生の頃に読んだ「デビルマン」で受けた衝撃をゲームで体験してもらえるような工夫も盛り込まれています。

ヒット作には運も必要? 立ちはだかる"100万本"の壁

小学生の時田少年が漫画から衝撃を受けたように、多くのプレイヤーが『ライブアライブ』に衝撃を受け、28年後にリメイク版を実現するまでに長く愛される、根強い人気を誇る作品になりました。しかし、当時の売上はそうはいきませんでした。同じ社内でも『FF6』と、「Vジャンプ」が総力を上げて宣伝をしていた『クロノ・トリガー』の発売に挟まれ、その直前の週には『MOTHER2』が発売され思ったように売上がのびなかったのです。

「ドラクエ」も「FF」もミリオンヒットを達成したのは2作目以降、本当はIPとして継続したかったという『ライブアライブ』ですが、経営陣から「100万本売れないと難しい」と断言されてしまい、長期開発計画の中にあった「オムニバスRPG 2(仮)」の文字も消え、残念ながらチームは解散することになってしまいます。

チーム解散後、『ライブアライブ』制作時に仮想敵としていた『クロノ・トリガー』の手伝いに回ることになったのは「かなりどころの悔しさではなかった」と語る時田氏。当時、プロデューサーが宣伝まわり、ディレクターが開発まわりを担当していたスクウェアで、時田氏が初めて企画の立ち上げから最後まで背負って反省をした思い入れの強い作品になったそうです。

ヒストリーポイント④ 2000年 任されることとやりたいことのバランスをどう取ってきたか?

2002年11月 スクウェアとエニックス合併
時田貴司氏が2000年代に関わったタイトル例
『バウンサー』、『半熟英雄 対 3D』、『武蔵伝IIブレイドマスター』、『マリオバスケ3on3』、DSリメイク版『ファイナルファンタジーIV』、『ナナシノゲエム』、「ファイナルファンタジー レジェンズ」シリーズなど

仕事での物作りとなると、必ずしも自分の作りたい作品ばかりを任されるわけではありません。

初のディレクション作品『ライブアライブ』で「やりたいことを全部ぶち込んだ」と語る時田氏。その後、プロデューサーや部長など様々な立場で多くのプロジェクトと向き合うことになります。関わった作品はRPG以外にも、レーシングゲームにホラーと、ジャンルも様々です。プロジェクト毎にそのジャンルが得意なスタッフが集まり、信頼関係を築きながら作品を完成させてきたといいます。

今までの制作で一番大変だったのはシネマティックRPG『パラサイト・イヴ』だったと語る時田氏。初挑戦の3DCG、予算も人数も増え、ディレクターとしてロサンゼルスで暮らしながらスクウェアUSAのスタッフと共に制作するという、大きな環境の変化がありました。

その中でも最も苦戦したのは”言葉の壁”だといいます。映画業界からゲーム業界に初めて参入したスタッフたちとの慣れない英語でのコミュニケーションは、通訳を介しても細かいニュアンスまで伝えることが難しく、フラストレーションが溜まったといいます。

しかし、急遽住むことになったロサンゼルスも実際に暮らしてみると楽しく、映画業界で働いてたスタッフならではの斬新なアイデアに刺激を受け、新しい発見が多い環境を楽しめるようになり、「大変だったけど経験できてよかった」と思えるようになったそうです。

ゲームはチームで作る鍋料理!? 共同作業を楽しむ才能

ゲーム制作はチーム作業で、毎回違うメンバーで一つの作品を作り上げていく様子は演劇のキャスティングのようなもの。与えられた作品と役柄を「どう割り切って楽しむか」が大事で、いかに共同作業を楽しめるか、人を信じられるかが重要なのだそうです。またディレクターとして作業を分配する際、「やってくれ」と頼むのではなく、やりたいという人に任せることも重要で、時田氏曰く「任せられる”共犯者”を増やしていく」ことが大事だといいます。

ゲームは鍋料理。一部の細かいところだけを議論するように、大根やちくわなど一つの具材だけ見ても仕方ない。全体の味を見ながらスープを足してみたりして進めていくもの。粗くても一回作って、みんなで一回食べてみることが大事」と語る時田氏。

プロジェクトは必ずしも最初から順調ではありません。また、今のゲーム制作は制作人数も多く作業も細分化されています。しかし、細かい部分ばかりを気にしていると制作は進まないので、ひとまず上手くいっている部分から手を動かし、そのログを繋げていくことが完成への近道だといいます。いわゆる”バーティカルスライス”を鍋料理に喩えるところに時田イズムを感じますね。

楽しむ精神と、手を動かすことの大事さに加え、様々な立場を経験したことで、どこかでトラブルが起きたときにもバランスを取りやすくなったこと、そして別の担当者の仕事の感覚も掴めることを挙げました。一見遠回りのように見えても、若いうちからたくさん経験することは大事で、得意不得意も明確化でき、やりたいことが見えるようになり、最終的に宝になる人脈を得られたと言います。

様々な立場で色々な作品と向き合い、やりたいこととそうではないこと、人気タイトルと初登場タイトル、そして成功と失敗を一通り経験し、自分がやるべきことが見えたと語る時田氏。一体その使命に感じたこととは何だったのでしょうか?それはリメイク版『ライブアライブ』を通してさらに浮き彫りになります。

ヒストリーポイント⑤ 2022年 およそ30年近くの時を経て「ライブアライブ」リメイク開発


《アネモネ・モーニアン(アニモ)》

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