今日のメディアアートに欠けたものを満たすヒントは茶文化や禅にある―落合陽一は未来をどう予測する?【SIGGRAPH Asia 2021】 | GameBusiness.jp

今日のメディアアートに欠けたものを満たすヒントは茶文化や禅にある―落合陽一は未来をどう予測する?【SIGGRAPH Asia 2021】

国際会議&展示会「SIGGRAPH Asia 2021」より、筑波大学デジタルネイチャー開発研究センター センター長・准教授の落合陽一氏によるセッションのレポートをお届けします。

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今日のメディアアートに欠けたものを満たすヒントは茶文化や禅にある―落合陽一は未来をどう予測する?【SIGGRAPH Asia 2021】
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2021年12月14日~17日、東京国際フォーラムとオンラインでCGとインタラクティブ技術に関する国際会議&展示会「SIGGRAPH(シーグラフ)Asia 2021」が開催されました。本稿では、筑波大学デジタルネイチャー開発研究センター センター長・准教授の落合陽一氏によるセッション「コンピュータグラフィクス、メディアアート、茶文化、そして、禅。」のレポートを、落合氏が講演時に提示した6つのテーマに沿ってお届けします。

物化する計算機自然―コンピュータグラフィクスとメディアアート

落合氏はまず「物化」という語が中国の思想家・荘子の説話「胡蝶の夢」にちなむものだと解説。物の形が変わっていくこと、万物が変化することが物化であると解説しました。写真技術や映像技術の発展、デバイスやコンピュータの進歩とともにその形を変えてきたメディアアートに携わってきた落合氏。今特に興味を惹かれているのは、物質的な世界と、それを描くためのイメージとのギャップにあるそうです。

「石を彫れば彫像になるし、壁に絵を描けば壁画になる。我々は、イメージをどのようにレンダリングすれば物質にできるかをずっと考えてきました」。何かを形作るのと、ビジュアルイメージの間には何らかのフォームのようなもの――物質的で、触れたり感じたりできるもの――があるのではないかという考えです。

そして昨今はコロナ禍で、Zoomなどのサービスを用いて映像と音声のみでコミュニケーションを取る例が急増しました。落合氏はそれを例に「映像なしにはデジタル空間に存在できず、映像が人の第二の体となるときがあります。映像と人間が分けられていた時代から、人間が映像に変換される時代になりました」とし、映像と鑑賞を別個のものとして捉えてきたこれまでと、どのような違いが生まれるかをあらためて検討することの重要性を示唆しました。

定在する遊牧民―持続可能性とメディアアート

定在する遊牧民」は、韓国に生まれアメリカで活動した現代美術家のナム・ジュン・パイクによる言葉です。ナム・ジュン・パイクは、2万年ほどまえに絵画が生まれたのは人が突然賢くなったからではなく、絵という物理的なものを運ぶのに農業共同体の誕生を待つ必要があったからだとし、音楽やダンスが絵画をはるかに先んじては50万年近い歴史を持つのは、脳に蓄積されるもので持ち運びが容易であったからだとしています。

そして自身が生きた石油危機の時代にも触れ、その原因を「60kgの体を動かすのに、300kgもある自動車を使い続けている」からであると指摘。この危機を打破するには"体を一切動かさずにアイディアのみを移動させること=定在する遊牧民になること)"としつつも、我々はまだそのような存在ではない…と言葉を残しました。

落合氏はそれを受けて「石油危機の時代から40年が経ち、私たちは今、当たり前のように"定住する遊牧民"として暮らしています」と補足。香港で展示会を行う際、作品を出展するスペースに関するやりとりは現地と日本で行ったことを例に挙げ、Post Covid時代に向けてナム・ジュン・パイクを再考する必要があると語りました。

あわせて昨今活発になってきているNFTアートの隆盛にも触れ、かつてはギャラリー会場で併催されるオークションでやり取りされてきたアートが電子空間上のみでやり取りされるようになったのは非常に合理的で、これも"定在する遊牧民"に近しいものであると補足しました。

また、メディアアートがずっと抱え続ける大きな問題であり、さらにこれからも依然大きな問題として存在し続けるテーマとしてサステナビリティ(持続可能性)との向き合い方が提唱されました。

第一に、メディアアートはそれ自体のサステナビリティが著しく低いという特徴を持ちます。落合氏はアートの一環としてLCDや真空管、ブラウン管などを用いてきましたが、修理する技術や部品は失われていく一方で、この課題の解決策は見つからないままです。

「20年前のゲームソフトが起動しなくなったり、美術館に展示されているものが電源を入れても動かなくなってしまったり……。いまだ解決策がない、大きな問題です。鏡のような彫刻を磁力で浮かせる作品を手がけたことがありますが、予備を10個作っておいても展示期間が終わった時には8個壊れていたこともありました」。

第二に、サステナビリティというと一般的には環境への負荷を指すことが多いですが、落合氏はこちらに関してはメディアアートはまだまだやれることがあるとしました。

茶文化―メディアアートのオルタナティブ

環境負荷対策へのヒントは、日本の茶文化にある…と落合氏は続けます。お茶を点てる際に用いる茶杓は、家屋の廃屋から取れる煤竹で作られました。そもそもの発端がリユースであるうえ、そうして作られた茶杓は100年以上用いられることも珍しくありません。さらに、日本の茶文化は今日のメディアアートのオルタナティブとして捉えなおすことができるとしました。

ます茶文化はお茶を出す作法や仕草そのものがパフォーマンスとして成立しており、ある種の総合芸術として成り立っています。さらに、どのような茶碗や茶杓、茶室を彩る花びんに活ける花、掛け軸などをどのように選ぶかでメッセージ性を込めることができ、選んだモノとパフォーマンスで何かを語るための体験を作り出す茶人は、今日でいうならキュレーターとパフォーマンスアーティストの中間のような立ち位置にいたと解説しました。

「メディアアートは何のメディアを用いるかということに意識的です。そのことと、用いる道具の取り合わせでのみメッセージを発する日本の茶文化芸術は非常に親和性が高い。そこは見直されていいんじゃないかと思います」。

茶禅一味―侘と寂、一期一会

落合氏は日本の茶文化をひと言で言い表した語として、千利休の言葉「茶禅一味」を紹介しました。茶道と仏教でいう禅の修行は同じところにある、とする言葉です。また、「(海外向けに)侘びと寂びを英語で説明してほしい」と乞われたときには、仏教用語を一切用いず、コンピューター用語で説明すると語りました。

「"ラフとランダムなデカダンス"のことを侘といい、"時間を使って出てくるもの"を寂といいます。つまり、複雑なものとシンプルなものを調停させて、それを何度も繰り返すうちに自然に向かっていく美のことです。計算などをコンピュータの中で何度も繰り返す行為と、非常に考え方が近い」。

民藝と共生―コンヴィヴィアリティのための道具

落合氏は「Zoomでやり取りをしていると身体性が足りないと思うことがある」と言及。卑近な例として「たとえばZoomで飲み会をしても、あまりおもしろくないと感じませんか?」と問いかけを発します。

そしてオーストリアの哲学者イヴァン・イリイチの著「コンヴiuィヴィアリティのための道具」から"コンヴィヴィアリティが一定の水準以下に落ち込むと、社会成員間に生み出す欲求を有効に満たせなくなる"を引用しつつ「おそらくコンヴィヴィアルである(か、ないか)ということが重要」であるとしました。

コンヴィヴィアルは宴会、共に住む、共存…などというニュアンスの意味を持つ語です。それをアートに求めるなら"生活とともにある芸術"ということになります。落合氏はその答えのヒントを民藝に求めました。民藝は暮らしの中に、特定の作家ではない人物が作ったアートというものがいかに存在しうるかを考えるもので、1920年代には民藝運動が盛んに行われました。

落合氏は民藝を手仕事の美と位置づけたうえで「分業・伝統・他力などによって成り立ち、安価で、労働によって作られ、地方性・実用性・無銘性・複数性を持つもの」と定義しました。言い換えるなら、「無名の職人が生活のために作ったもの」が民藝品ということになります。

その中にこそ現れる自然の美があるかもしれず、アジアの街頭に電気が通っているメディアアートを見出すことができるかもしれないとし、自身の作品もいつしか民藝的な要素を帯びていくかもしれないこと、民藝を今あらためて考え直す意義などに強い関心を示しました。

また、コンヴィヴィアルと共生を満たすことにつながりうる要素として、自身が開催したワークショップの話が披露されました。そのワークショップは「デジタルデータをデジタルデータより長く保存する」をコンセプトに、密教に基づく図像・曼荼羅をプラチナプリントで作成するという目的で行われました。プラチナプリントは世界最高峰の写真現像技術で、支持体さえもてば500年、1000年先も残るとされています。

プラチナプリントは商用の印刷機では行えないので、畢竟ワークショップでのプラチナプリントは手作業に。「画像作成時はデジタルなプロセスなのに、プリント作業は非常にコンヴィヴィアルで、原材料から見直すワークショップになりました。こういったものが持つある種の民藝性のようなものが、今日の身体性の欠如となにかつながるのではないかと思っています」。

いのちへ―人間と自然のオルタナティヴ

こうした経験を通じて落合氏は「手作業のようなものが、あらためて意味を持ちつつある時代」であると実感。現代においてどのようにすればコンヴィヴィアルなものを作り出せるか、ここで考える必要があるとしました。

また、氏がディレクターを務めた2021年開催の日中韓芸術祭では提示された「ファッションショー」「パッチワーク」というコンセプトに沿うために、東北地方に長く伝わる襤褸文化に着目。「200年や300年継ぎ足し続けた独特の風合いの服で、当時は忌むべきもの、恥ずべきものという風潮だったが近年はその美しさが再注目されている。そしてサステナビリティが非常に高い文化でもある」と紹介しました。

メディアアートはこうした伝統的なものにも馴染む性質があり、どのようなメディアで表現するか用途によって使い分け、そしてその使い分けを楽しむ文化が茶文化のように生き残っていくのではないかと推測しました。

落合氏は最後に「"波に磨かれた小石のように自然な形"を探求していくうえで、やがて人間中心ではない命の風景を見出せるのではないか、人はいつか滅びる存在であるがゆえに、人がいなくなっても持続するものを追い求めることこそが、"価値と無価値を超越した、主語のない持続可能性"たりえるのではないか」と言及。

さらに、今回挙げた共生や民藝という言葉はそのままでは宗教性が強く、それゆえになかなか世界的に広がらないという懸念を挙げ、シミュレートしては出力するというような計算機的な自然で仏教哲学に依存していたものを捉え直すことで、宗教性をなくしても成り立つ美や手法が生まれる可能性を示唆しました。

《蚩尤》

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