【対談】『にょきにょき』コンパイル〇仁井谷正充の人生―成功と失敗から再起 | GameBusiness.jp

【対談】『にょきにょき』コンパイル〇仁井谷正充の人生―成功と失敗から再起

ゲームに限らず、音楽、映画、小説など、エンタテインメントのジャンルで大きなヒットコンテンツに関わったとき、その人々の人生が変わることがある。その振れ幅が大きいほど、その人やその周りの環境、そして、人生そのものに善きに悪しきに影響をもたらす。

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ゲームに限らず、音楽、映画、小説など、エンタテインメントのジャンルで大きなヒットコンテンツに関わったとき、その人々の人生が変わることがある。その振れ幅が大きいほど、その人やその周りの環境、そして、人生そのものに善きに悪しきに影響をもたらす。

そんな大きなヒットコンテンツの結果、仁井谷正充氏の人生は大きく揺れ動き、そして今再び新しい一歩を踏み出そうとしている。

今回の対談は、1980~1990年代にアグレッシブなソフト開発と異色の会社経営で一時代を築いた元株式会社コンパイルの創業者、仁井谷正充氏だ。仁井谷氏は柔軟かつユニークな経営を貫き、時代を先取りしたシンプルかつキャラクター色の強いパズルゲーム『ぷよぷよ』で大きな成功を納め、ジャンルの異なるRPGにも挑戦し『魔導物語』をヒットに導いた。しかし、資金繰りに行き詰まり、最終的には2004年2月17日に破産。

同氏は今、再起を賭けて新たなチャレンジに取り組んでいる。2016年4月に新会社コンパイル○(まる)を創業し、2016年11月16日にニンテンドー3DS用の新作落ちものパズル『にょきにょき たびだち編』を発売し好評を博している。

今回のトークセッションは、松戸市役所が後援している松戸コンテンツ事業者連絡協議会が、松戸市の地方創生事業のとして地域の就業支援・産業振興のために、同じく松戸市にあるDH(ディッジ)ムービーで開催された。聞き手はメディアコンテンツ研究家であり、プロデューサーの黒川文雄氏。




■起業は「でも、しか」で、目標があったわけではない


黒川:今日は宜しくお願いいたします。では、まず、仁井谷さんの起業の経緯を教えてください。

仁井谷:生まれは広島県、広島の大学へ入って、それからしばらくしてから、広島県内でいろんな仕事を転々としました。起業する前に、パソコン系の販売会社に居て、その販売株式会社の社長さんと折り合い悪くって、その時、感じたのが「あれ?私は人に仕える事が性に合わないな」だから、「会社でもやろうかな」と思ったんです。つまり起業したきっかけは「(会社)でも(やる)しか(ない)」ですね。特に、何の算段も無く、「会社作っちゃえ」と。何か具体的に目標があったわけじゃなし。

黒川:そうなんですか。

仁井谷:当時は自分が育った環境で、なんか「親と同じような生き方するのかな?」と思っていました。あと学生時代に、どちらかと言うと左巻きだったので、いろんな活動をやっていて、大学は7年くらい在籍したんだけど、卒業できないから、とりあえず仕事を転々として、大学時代から、まともに就職するという風には思っていませんでした。

黒川:それでパソコンの販売のお仕事に、まず就かれたという事ですが、あまり性には合わなかったんですか。

仁井谷:とにかく人に仕えると、自分の気持ちがダウナーと言うか、下がって行くんですね。「俺は人に仕えたらアカンのや」とね……。パソコン販売会社の中で、自分がちょっと分かったのが、そのお店の売り上げの在り方は、当時は単純だったんだけど。「こうすればちょっと売り上げがあるんじゃないの?」と言うのが、ちょっとずつ見えてきたんですね。単純な話で、理屈言っちゃうと、当時、その手のパソコン情報誌があるじゃないですか。その情報誌が普通のお店よりも、1日か2日先に入荷したんです。その情報を基にパソコンを売るという事を始めると、最初10冊しか売れなかったのが、100冊とか、200冊売れるようになって、そうすると当然お客さんが増えるじゃないですか。それでパソコンの売り上げが上がるという流れがあったので、単純な事ですよね。

黒川:なるほど。

■付加価値を付ける面白さ

仁井谷:スタッフが4人しか居ないのだけど、パソコンのことが分かるのが私しか居なくて、あとは全くの素人さんなんで、基本的に私の主導権で何でも動ける……。すると社長の方針と、私がやろうとすることが、当然ベクトルが違ったりするんです。特に、その中で私が感じたのは、「モノを右から左へ売るだけのお店は嫌だな」と「自分で外的な付加価値を作ったり、売ったりすることが面白いな」とか、あと情報誌とか作っていたので、そういう事が面白いなと思ってて、ちょっとずつそちらへシフトしていったと言う感じですよね。

黒川:その当時はまだ終身雇用に近い考えだった時代ですよね。

仁井谷:そうそう。だけど、どちらかと言うと我々、団塊世代のメンバーは、学生運動みたいな事やってるから、まともに生活出来ない人がいて、私と同世代の人は学習塾とかいろんな独立やる人は結構いらっしゃるんです。そういう流れがあるから、「まあ、そんなに気にしないで」って言う感じでしたね。「自分でやろう」という人もたくさん居たし、そういう仲間もたくさん目の前にいるし。私自身もある段階では、学習塾もやった事あるんで、そういう流れは分かるんですね。

黒川:そういう中で、ずっとモノ作りをしたいと思われていたのですか?

仁井谷:そんなには思ってないですよね。パソコン販売の会社では、アップル用の『ギャラクシアン』を作ったことがあるので、そこら辺から「ゲーム作るの面白いな」とは思ってました。

黒川:なぜ「ゲームやってみよう」という気持ちになられたんですか?

■流れのなかで生きているという感覚

仁井谷:私はどちらかと言うと、流れで生きているので……。その流れの中で見つけて行く、人にも説明するとそういう事言うんですけど、「基本的にやろうと思ったら、滅多に出来ないよ」と。流れの中でやってるうちに、そこを一生懸命やってたら、自分に力があれば、いずれ自分のやりたいことが出来るように「絶対いけますよ」って思ってるんで、そういうアドバイスしちゃいますね。

私が会社を作った時にはファミコンが生まれて、翌年にセガ系のゲーム機が発売されたんです。セガ系のゲーム機が出る時に、お話があって、「なんかゲーム作って欲しいよ」という流れがあったから、「じゃあ、作ろうかね」と。それも全部流れなの。

黒川:特に計画をして起業したわけじゃないのですね。

仁井谷:要するにセガの仕事貰ったりとか、いろんな人から仕事貰ってる形で、ゲーム作ることが、ゲーム業界で評判になって、「コンパイルさん仕事して欲しいよ」と言うのは、もう待ってれば来るという中で、徐々に会社が大きくなり、そのうちMSXとか自社ブランドで出せるから、出して行くうちに、まず一つのきっかけは、話すと長くなるけれど、要するにディスクステーションという、CD-ROMみたいなモノでの雑誌という形態で出した事が、まずコンスタントに稼げる一つ枠組みが出来て、そこからコトが始まると言う感じです。

黒川:ディスクステーションから『魔導物語』とかヒットが生まれる。

仁井谷:その中から、『魔導物語』とか、『ぷよぷよ』に繋がるような、落ちゲーみたいなのものが生まれてきた。そういった流れですよね。

黒川:ディスクステーションも当時としては、他に例を見ないようなチャレンジ的な商品ですよね。

仁井谷:私は恐らく世界で初めてだと思ってるので、そういう意味では特許とれば良いと思ったけど、一応取らないで良いかな、と思って取らなかった流れですよね。

黒川:それもすべて来るモノの中で、生まれて来たと言う感じのモノなのですか?

■普通の人は戦術しか分からない


仁井谷:要するに仕事の中では二つあって、仕事の戦略と戦術があるんですね。普通の人は戦術しか分からないんですよね。例えば、ある会社のRPGだと、毎年のように大きくすればいいやと、スタッフが100人から200人、200人から500人になったら、それは寓話のカエルのお父さんが腹を膨らます話と同じでパンクするしかなくなるんですね。じゃなくて、戦略と言う事で、何かと何かがやれば人に勝つって戦略で持って行けば、仕事のコンセプトとか戦略が見えて来て、自分なりに戦略がちょっとずつ立てれる。

例えば、コナミさんがMSX頑張ってる時に、「それに対抗する戦略これじゃないの?」と言う中で、出しながらちょっとずつ見えて来て、その戦略が大事だとは思っています。その前はコンセプトが分からなかったので、コンセプトを理解して、それが使える。その次が、戦略が分かって、使える。戦略は誰もかれも分かるわけじゃないんです。

黒川:『ぷよぷよ』が大ヒットするまでの経緯というのは、どのようなものでしょうか。

■テトリスがもたらした衝撃

仁井谷:『ぷよぷよ』が売れる何年前なのか忘れましたが、ゲームボーイで『テトリス』が4,000万本売れた。そこで、どう感じたかと言うと、当時、あらゆるゲームやゲームシステムが、肥大化して、難しくなり、だんだん開発者もたくさん増えて、って言うのが普通の流れだったので、その時、『テトリス』と言うゲームが売れた…と。

あのゲーム見ていると、どう考えても、作業量として「ごく普通のプログラマーが、1~2週間、長くても1か月であの程度のことが出来るな」と。それが4000万本売れたというのが、私だけじゃなく、恐らくゲーム業界みんなショックだったと思うんですね。その事から、「あ!じゃあちょっと落ちゲーみたいなモノ、コンパイルもチャレンジしてみたいな」と言うとこから、『ぷよぷよ』が生まれて来たという風に思いますね。

黒川:成功された後に、ある種『ぷよぷよ』の会社になっちゃった所もありましたよね?

仁井谷:その時に、いろんな産業が大きくなると、特に日本の電機メーカーとか車メーカーとかそうなんだけども。日本程度だと、大手3社とか5社に絞られるじゃないですか。そういう風になるだろうとしたら、「我々もその一角に食い込みたいな」と思う為に、何をしたら良いだろうと考えながらやっていましたね。

黒川:それが結果的に、『ぷよぷよ』っていう大きな看板になったし、コンパイルという会社もどんどん大きくなって行ったわけですよね。

仁井谷:そうですね。

■すべてを自前でやろうとした結果・・・・

黒川:その中で会社はどんどん大きくなられて、会社も数百人規模になって来ましたよね。象徴的だったのは、イベント会場とかで背中に「丁稚」って書いてあるような人がいっぱい居ましたが、あれぐらいの規模になると、かなりコントロールとか難しくならなかったですか?

仁井谷:それは仰る通りだと思いますね。社員が100人いる。そこで50人とか30人とか居ると、指導できない状況は、たぶんあったと思うので、そういったのは今反省すると100人ぐらいだったら、年に新入社員を10人。200人だったら20人ぐらい採るぐらいが、客観的には良いのかな。と言う気はしますよね。

黒川:『ぷよぷよ』のヒットによって、急激に会社も大きくなって、期待されるモノもユーザーから大きくなりますよね?そういう中で、どんどん業容が広がって行った感じですかね?

仁井谷:恐らく、そこはちょっと違うんですよ。当時、魔導ランド、分かりやすく言うとぷよぷよランド作るために、何をやるにしても、例えば、テレビコマーシャルをするにしても、イベントやるにしても、雑誌にいろんなことするにしても、全部我々がすべてを準備して、すべてをやらない限り、理解してもらえないんですよね。例えば、ぷよぷよランドを作ろうと思ったら、仮にスタッフが1000人いるとすれば、どうも恐らく自前で1000人用意しないと上手く行かないんじゃないかなと思うようになりました。当時21世紀になったらオープンしたいと思っていたので、数年しかないから、「じゃあ、どうやってスタッフ増やす?」って思ったところが、そういう考えがよろしくなかったという事でしょうね。

黒川:すべて自前で全部やろうと?

仁井谷:やらざるを得ない。

黒川:ぷよぷよランドに関しては、以前にテレビ番組で拝見したのですけども、かなり構想が大きく広がって企画書を作ったりして、そこでもかなりお金がかかってしまった。というお話を聞いたのですけども。

《黒川文雄》

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