現代演劇から考えるゲームの物語性・・・新清士「人とインタラクティブの間」 第1回 | GameBusiness.jp

現代演劇から考えるゲームの物語性・・・新清士「人とインタラクティブの間」 第1回

日本経済新聞IT Plusで「新清士のゲームスクランブル」を連載させて頂いている。その時々にゲーム産業内で起きている時事ネタを解説する主旨のコラムだ。

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日本経済新聞IT Plusで「新清士のゲームスクランブル」を連載させて頂いている。その時々にゲーム産業内で起きている時事ネタを解説する主旨のコラムだ。

GameBusiness.jpで新たに連載コラムの話を頂いて、何を書くべきなのかを少し考えた。もう少し広い視点と中長期的な長い時系列で物事を考えるととで、ゲームを中心としたインタラクティビティが人間をどのように変えようとしているのかを紹介するというあり方なら可能ではないかと思え引き受けることにした。月に1〜2回程度の更新となるが、おつきあい頂きたい。

■現代芸術には伝えるべきことなど何もない

演劇家の平田オリザ氏の「演劇入門」(講談社現代新書)を読んでいて、考え込まされる部分があった。演劇論が行われているのだが、それは同時に現在のゲームにも通じる部分が多数あるからだ。

平田氏は、「『伝えたいことがある』近代芸術に対して、現代芸術、現代演劇のいちばんの特徴はこの『伝えたいこと』=テーマが、なくなってしまった点だと私は考えている」(P.35)と書いている。近代芸術はシェークスピア劇のころに誕生したものだが、作家が何かを演劇という物語を通じて伝えたい明快なメッセージを持っているというものである。それが、現在では失われてしまったと言うのだ。

その理由を二つあげている。一つには「それが本当になくなってしまった」という。物語の中で大きなイデオロギーを提示すること事態が、意味をなさなくなったというのだ。「東西冷戦の終結がおこり、エイズや、コンピュータの異常な速度での発達といった現象が、価値観の多様化をもたらし、一つの大きなイデオロギーで複雑な諸問題を解決しようとすることは、まったく無意味になってしまった。伝えるべき思想が空洞化したといっても言いだろう」。そのため、演劇の中で、「大きな物語」を提示することが意味をなさなくなったと書いている。

もう一つには、「芸術の社会的な役割の変化」をあげている。演劇は社会変革のためメッセージを伝えるためのメディアとしての側面があった。江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃は、単なる物語を提供するメディアとしてではなく、ニュースを伝える役割を持っていた。例えば、大阪で起きた心中事件を、物語化して江戸で見せることで、ニュースと上方の風俗を「見てきたように伝える」という重要な社会的な役割を持っていた。

ところが、現在の時代には、演劇の物語にニュース性を期待する人は少ないだろう。メディアとしてもジャーナリズムとしても、演劇は、準備に時間がかかり、劇場という限られた場所でしか観ることができない、最も遅く、最も面倒な表現手段になってしまったからだ。「主義主張を伝えるのなら、もっとほかの有効な手段が山ほどある。戦争反対という思想や意見を伝えるのであれば、演劇を使わなくとも、CNNでボスニア・ヘルツェゴビナの難民の子供たちの映像を二十四時間見せた方が、よほど、何か伝わるものがある」と書いている。

そのため、「現代演劇においては、伝えるべきことなど何もない」とまで述べる。しかし、「伝えたいことなど何もない。でも表現したいことは山ほどあるのだ」とひっくり返す。自分が伝えたいと感じている強い欲求をそのまま表現するようにして世界を描く、そう現代演劇の方法論について、平田氏は論理を展開していく。


すぐに連想したのが、メディアとしてのゲームの持つ特性だ。ゲームには伝えるべきものはあるのだろうか。「スーパーマリオ」にどんなメッセージ性があるだろうか。「ソウルキャリバー」にどんなメッセージ性があるだろうか。多分、ないように思えてくる。インタラクションを使った、楽しさやおもしろさだけで押している。

我々が普段から遊んでいるゲームは、基本的な主義主張が存在していないのが普通だ。ゲームには、演劇よりもさらにイデオロギー性やジャーナリズム性が入る余地が小さい。あっても、あまり好まれていない。

そのため、1983年の「ファミリーコンピュータ」の誕生から現在にまで続く人気は、そもそも、社会に対して影響力を持ちうる「大きな物語」が不要になった現代芸術の時代が登場した時代背景とマッチしたからこそ、成り立ってきたといえるのかもしれない。

そして、ゲームの作り手の側は、そもそもメッセージ性は必要なく、ゲームの中に、ただ「何かを表現したい」という欲求だけをぶつけて、今の時代まで、様々なゲームが作られてきたように思える。

■演劇もゲームもユーザーを惹きつけるのは人の心の揺れ

平田氏は、自身が目指す現代演劇を以下のようにまとめている。

「常識や経験といった既成の価値観、あるいは特定の思想や宗教にとらわれずに、少なくとも、それらをできるだけ排除し、後退させる形で、世界をありのままに記述すること。その努力の様式。これが私の考える現代演劇の大きな枠組みである」(P.44)

そして、演劇の役割を「大きな精神の振幅を描くこと」としている。微妙な登場人物の内面の変化を見たいというお客さんのニーズは未だにあり、そこにあわせて作ることで、成功できるという考えを展開している。

使用する題材でさえ、しっかり調べたりはするが、あくまで心理描写の舞台や設定としての効果を増すために調べるのであって、そちらが主目的ではない。完全に人の心をうまくあぶり出すための装置という扱いだ。


制約条件の違いを念頭に入れる必要があるが、ゲームでは現代演劇の立つと頃が同じ基盤に立っているところがある。我々のゲームはそれが成立した直後から、イデオロギー性を持たず、メッセージを伝達するメディアでもなかった。

演劇は「現実の人が演じる」ことによって行うために、いい役者であれば人間の内面を表現しやすい。しかし、壮麗な建築物を演劇の中に登場させることは出来ない。そのために日常生活をテーマにしたようなものが一般的になる。

一方で、ゲームの場合は、人間を人間のままに表現することは容易ではない。莫大なコストをかけても、なお、成功するかどうか怪しい。だから、日常生活のようなゲームを避け、巨大な舞台装置を作り込むというコンピュータが得意な方向に向かっていく。登場する空間がインフレ化していくのだ。過剰な装飾、過剰な建築物……。しかし、ゲームの特性であるインタラクションは、それらの過剰性によって、より特別な感情の揺れを表現することが出来る。

しかし、共通するのは、関心を持たせ続けさせる動機の一つは、そこに登場するキャラクターたちの心理状況の変化である点だ。巨大な枠組みは、キャラクターたちを引き立てる装置にすぎない。世界はしょっちゅう滅びかけるし、主人公一人にすべての世界の命運が背負い込まされる。これはゲーム自体の表現能力がまだまだ低いからこそ起きる現象ではないかと思う。

『Gears of War』や『Halo』シリーズのように、どんなにゲームの中で大戦争をやっていようが、その戦争には、ハリウッドのB級映画以上の中身はない。メッセージ性は何もない。要するに銃撃戦をする理由がほしいだけのように見える。

しかし、登場するキャラクターはゲームの幕間のドラマパートでキャラクターとして苦悩する。それがユーザー側にゲームを遊ばせるモチベーションの一つとして機能する。

ただ、そこに登場するキャラクターに対して、プレイヤーはなりきったりして、思い入れをして好きになったり、嫌いになったりする。

■設定はキャラを引き立てる舞台装置にすぎない

これは日本のゲームでも変わらない。「鉄拳」をクリアした後に短いムービーが入るが、根本的には個々のキャラクターがどうなろうがどうでもいいのだが、ちょっとだけ気になる。本質的に「ファイナルファンタジー」や「ドラゴンクエスト」といったRPGでも変わらない。


あるRPGを作った若手のプランナーと話していた時に、どうして必ず日本のRPGには最後にボスキャラとして、大量破壊兵器が登場する展開が多いのかと私は聞いた。驚いたのが、その方は「考えたこともなかった」と返答したことだ。

物語を展開させるために、カタストロフを作らなければならない。そのために、クライマックスに敵が大量破壊兵器を使って、民間の人々に大きな被害をもたらす。ほとんど、どのゲームでも見かけるお約束という文法になっていて、プランナーとしてはいつのタイミングで入れようか、という点しかシナリオ上で考えてなかったと言った。

大量殺戮をする兵器が、舞台装置として、話を進めるパーツであることが当たり前になっている。

しかし、現実の戦争はボスキャラが順序よく出てくることなんてことはあり得ない。実体が抜けて、骨だけが残り、単なる物語の「型」だけになっているのが、現在の物語だと言える。イデオロギー性も、メッセージ性も必要なく、世界設定は狂言回しにすぎないからこそ起きる現象だ。


しかし、だからこそ、今のゲームは壁にぶつかり始めているように感じている。

多くの人が見たいと感じるのが、物語を通じての「登場するキャラクターの感情の変化」なのだとすると、今のゲームというメディアでさえ、速度が遅いと感じられるような時代になり始めてきたからだ。もしかすると、「感情」を体験するメディアとしては、新しく登場したメディアに勝てなくなってきていると思えている。

■インタラクティブな感情体験はゲームだけのものではない

ユーザーにとって、感情を体験する対象は、なにもゲーム内の仮想のキャラクターである絶対的な必要性はない。完全に設計された生の感情が動いていて、それを受け取れる環境であればいい。それは、日本では「mixi」に代表されるソーシャルネットワークサービスや、ブログ等のソーシャルメディアが登場したことで、見事に新しい要素として吸収されつつある。

すでに、このページを読まれている方であれば、大半の人がそうしたサービスを利用されていると思うが、他人の日記やブログには、友人であったり他人かもしれない人たちの感情の変化が「生」に出ている。そして、変化は、新しい投稿やレスなどを通じて、常に起こり続けている。

これは、ゲーム開発よりも。ずっと早い展開で進む。メディアは細分化され、機能が充実していく、そういう中で、人は自分が聞きたい読みたい感情の揺れを探していく。


もちろん、すべてが代換えになるわけではない。しっかり作られた物語へのニーズは当然残るだろう。しかし、今では歌舞伎が江戸時代にニュースメディアだった性質が失われていって、より影響を与えられる範囲の狭い伝統芸能になってしまったように、ゲームが提供していた、インタラクティブメディアであるが故に独占的に保つことが出来ていた性質である「特別な感情の揺れ」は、ゲームだけが提供できるものではななくなろうとしている。

ユーザーは、既存のゲームの作り手と遊び手との関係が固定されている物語メディアでは、提供される「感情の揺れ」の幅がどの程度のものなのかが、より早いメディアの登場によって、予測できるようになりつつある。

あるRPGでは、キャラクターがこれだけリアルになりましたとポリゴン数を誇る。キャラクターが装備できる武器の種類や、服のバリエーションを誇る。しかし、その道の先には未来がない可能性が高い。所詮は、どれほど予算をかけても企業が用意できる「感情の幅」を生み出す装置には限界があるからだ。巨大に作り込まれたゲームであるからといって、それが登場するキャラクターの豊富な「心理状態の変化」を提供するわけではない。


任天堂は、『うごくメモ帳』や『メイドイン俺』によって、思いきって、完全にユーザー生成コンテンツ(UGC)に踏み込んだことは、大きな変化だ。そして、アップロードされているデータには、企業では決して用意できないバリエーションを持つユーザーの「生の感情」があふれている。

多くの開発者に警告したいのは、我々がゲームでしか表現できないと思っているものは、必ずしもそうではないという時代になってきていることだ。様々な強みと思っているものが、すでにニッチになりつつある可能性を認識すべきではないかと思うのだ。

■新 清士
1970年生まれ。慶應義塾大学商学部及び環境情報学部卒。ゲーム会社で営業、企画職を経験後、ゲーム産業を中心にリサーチするジャーナリストに。ゲーム開発者を対象とした国際NPO、国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)代表。立命館大学映像学部非常勤講師。コンピュータエンタテインメント協会(CESA)理事。日本デジタルゲーム学会(DiGRAJapan)理事。連載に、Nikkei Net IT Plus「新清士のゲームスクランブル」。
《新清士》

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