子どもの頃の夢はゲームセンターの店長、新卒から10年で社長就任・・・日本ファルコム近藤季洋社長 | GameBusiness.jp

子どもの頃の夢はゲームセンターの店長、新卒から10年で社長就任・・・日本ファルコム近藤季洋社長

企業動向 戦略

子どもの頃の夢はゲームセンターの店長、新卒から10年で社長就任・・・日本ファルコム近藤季洋社長
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日本のゲーム史を語る上で外せない老舗メーカー、日本ファルコム。1981年に創業し、『イース』『軌跡シリーズ』『ザナドゥ』など、数々の人気シリーズで親しまれています。そんな中、2007年から代表取締役社長として同社の舵取りをおこなっている近藤季洋氏。新卒で入社後、わずか9年8ヶ月で社長に就任したという、異例の人物です。その生い立ちから会社の現状、そして未来の戦略までじっくりお聞きしました。

(聞き手:黒川文雄)

―――お久しぶりです。最近いかがですか?

9月30日発売の最新作『東亰ザナドゥ』の追い込みでバタバタしています。ゲーム業界で6月といえばE3ですが、毎年この時期は忙しくて、一度も行ったことがないんですよ。

―――なんと、そうなんですか。それは意外ですね。

毎年行きたいと思っているんですが、なかなかタイミングが合いませんね。

―――今日は日本ファルコムの近藤季洋社長にいろいろとお話をおうかがいしていきます。まず生い立ちみたいなところからお聞きしたいのですが。

生まれは愛知県の豊田市で、父親はトヨタ自動車の関連会社に勤めていました。今でも企業城下町的な言われ方をしますが、僕が子供の頃はもっとそういうイメージが強かったですね。学校の運動会は企業の休日を選んで実施するとか、食料品や日用品の買物は企業生協で行うとか。

―――ゲームとの出会いは?

最初は『スペースインベーダー』です。子供の頃に川でおぼれかけて、小学2年生でスイミングスクールに通いはじめました。自宅は田んぼのど真ん中で夜になると蛙の大合唱といった場所で、そこからバスにのって街まで通っていました。バス停を降りてスイミングスクールまでの道すがらに、インベーダーハウスがあったんです。ガラス張りのお店で中にテーブル型の筐体が置かれていて、子供心になんだろうって興味が湧いたんですよね。それを横目で見ながら行き帰りするのが日課でした。

―――でも、なかなか子供が入れる雰囲気ではなかったでしょう?

そうなんですよ。それにお小遣いも、そんなにありませんでしたしね。自分から遊ぶことはありませんでした。ところがある日、ゲームを遊んでいたお兄さんが席を立って、どこかに行ってしまったんです。きっと何か急用があったんでしょうね。画面を見るとゲームが続いていた。そこで自分がかわりに席に座って、続きを遊んだんです。なるほど、こういうものかと。あの時の衝撃はいまだに覚えています。その頃に学校の作文で「大人になったらゲームセンターの店長になりたい」と書いたほどです。これは今でも親戚の集まりなどで、よくネタにされます。

―――それがゲームの原体験だったんですね。

ええ。でも、うちは家が厳しくて、なかなかゲーム機を買ってもらえなかったんです。近所に5歳年上のお兄さんがいて、そこで『ブロック崩し』などを遊ばせてもらっていました。また家族旅行で半年ごとに会社の保養施設を活用しており、そこでは1回10円でゲームができたので、夢中になって遊んでいましたね。そんな、どこにでもいる子供だったんですが、小学校5年生の時に父親の仕事の都合でタイのバンコクに引っ越したんですよ。その時「そんなに好きなら・・・」とファミコンを買ってもらえました。でもテレビ番組とゲームであわせて「1日1時間半」というルールがありました。

―――バンコクのゲーム事情はいかがでしたか?

中学2年まで現地にいて、日本人学校に通っていたんですが、みんな日本の情報に飢えていて、熱心に情報を収集していました。「いま日本ではパソコンで『イース』というゲームがはやっているらしい」とか。主な情報源は雑誌で、少し遅れて日本のものが入ってきたんです。市内で日本の雑誌を扱っていた「東京堂書店」という店があり、僕もよくチェックしていました。

―――バンコクでもファミコンを売っていたのですか?

コピー品ではないかと思うのですが、色違いのファミコンが売られていました。並行輸入品もありましたが、1.5倍から2倍くらい価格がしたので、なかなか買えなかったですね。それで叔母に電話してゲームを買ってもらい、バンコクに出張してくる父親の同僚に頼んで、持ってきてもらっていました。もっとも半年に一本くらいでしたから、手書きでマップを書いたりして、一つのソフトをホントに隅々まで遊びこみました。

―――当時の思い出のゲームといえば?

初代『ドラゴンクエスト』は衝撃的でした。そもそもRPGというものが未体験でしたから。「テキストで遊ぶってなんだろう」と妄想をたくましくしていましたね。実際に遊んだのが発売されて半年後で、すぐに熱中しました。それでクリアした直後に『2』が発売されたんです。もう欲しくて仕方がなくて叔母に電話しましたが、日本でもなかなか買えなくて。これも半年遅れで届いて、夢中になりました。『ファイナルファンタジー』もよく覚えています。『ファミリーコンピュータマガジン』に掲載された1/4ページの囲み記事で、画面写真も1点しかありませんでしたが、グラフィックの描き込みがすごくで、「これは普通じゃない」と、またまた叔母に電話して取り寄せました。



ファンサイトの制作が就職につながった



―――御社の看板ゲーム『イース』シリーズとの出会いはいかがでしたか?

たしか友達の家で『イースI』のPC−8801版を見せてもらったんじゃないかなあ。ただ、その時のことは実はあまり良く覚えていないですね。その後、中学3年生で帰国して、幼なじみがハマっていた『イースIII』を遊ばせてもらいました。ゲーム機と違うパソコンならではの美しいグラフィックや、音楽の素晴らしさに驚きました。そのパソコンにはFM音源ボードとローランドのスピーカーがついていたんです。でもゲームは難しくて何度も死んでしまって。「うーんパソコンゲームは難しいなあ」と思ったり(笑)。

―――その後、大学進学ですよね。

ゲーム業界に将来進みたいという漠然とした夢みたいなものはありましたが、そこまではっきり自分がやりたいことがあったわけではありません。同志社大学に進学したのも、ひとつは創始者である新島襄の建学の理念や経緯を知って、興味を持ったからです。幕末に脱藩して留学のために渡米するなんて、そんなすごい人がいたのかと驚きました。もっとも両親からは国公立大学に進学しろと言われていて、合格もしていたんです。ただ、叔父が後押ししてくれたんですよ。彼も大学が京都で、何か感じるものがあったんでしょうね。

―――学生時代から日本ファルコムのファンサイトを運営されていたと伺いました。

実はゼミの課題がきっかけだったんですよ。経済学部だったこともあり、周りに流されるままに銀行などを志望していました。ところが就職に有利なゼミを選ぼうと学生課に足を運んだら、インターネットについて研究するゼミが新設されることを知ったんです。当時はパソコン通信の時代で、インターネットもブラウザが存在せず、テキストしか表示できませんでした。MOSAICが出るちょっと前の頃です。説明を聞きにいったら講師の先生が28歳と若くて、すごい美声だったんですね。経済学部でインターネットなんて変わっているけど、考え方もしっかりしている。それで「これはなにかある」と思って入ったんです。今考えれば二度目の転機でしたね。一度目は『スペースインベーダー』で、二度目が『インターネット』。

―――学校の課題で作られたんですか?

そうそう。なんでも良いからホームページを作って提出しろというものでした。当時はプロフィールと日記が載った個人サイトがネット上にあふれていましたが、人と同じことをするのも嫌だったので、当時遊んでいた『英雄伝説III 白き魔女』の攻略サイトを作ったんです。課題の提出が終わっても更新を続けていたら、だんだんおもしろくなってきて、課題を提出した後も運営を続け、当時まだ珍しかったアクセスカウンターや掲示板まで実装したんですよ。ただ「勝手にこんなもの作って良いのか」という疑問もあったので、日本ファルコムにメールして問い合わせたんですよね。そうしたら「常識の範囲で判断してください」と回答をいただきまして。じゃあ迷惑をかけずにやっていこうと。実は、それが縁で入社したところもあるんです。

―――そこはもう少し詳しくお聞かせいただければ・・・。

ファンサイトを立ち上げて1−2年たって、長野県に別荘を借りてオフ会をやったんですよ。そこでサイトを通して知り合ったいろんな人と話をして。みんな僕よりずっとゲームに詳しくて、中には現役のゲームディレクターの方もいたんですよね。そこで改めて子供の頃、ゲームセンターの店長になりたいという夢を思い出したんです。もっとも両親はもっと硬い仕事についてほしいと思っていましたから、「これからは終身雇用制度もなくなる」などと説得しまして。ゲーム業界に向けて就職活動をすることを認めてもらいました。

―――もともと日本ファルコムを志望されていたのですか?

そうですね。他のゲーム会社への就職も考えましたが、第一志望は弊社でした。しかも履歴書を送ったら、昔ホームページの件で問い合わせをしたことを、社内で覚えている人がいたんですよ。すごい縁だなと思いまして。ただ自分は技術を持っていなかったので、開発職ではなく、総合職で応募したんです。経済学部だったので簿記や経理の知識はありました。また当時はまだ自社サイトを運営している会社が少ない中で、日本ファルコムはちゃんと公式サイトがあったんですよね。そこでゲーム開発はできないけれど、ホームページ制作なら自分でもできるかもしれない、そんな風に思っていました。

■ゲーム作りは自社でじっくり、水平展開は他社と協業



―――仕事を始められてどうでしたか?

最初のうちは「どうなるんだろう」と感じることがしきりでした。はじめの一ヶ月でLinuxサーバを立ち上げました。「お前がいても戦力にならん」と言われて、秋葉原に研修に行かされたのも、今となっては良い思い出です。だんだんとシステム周りやサーバ管理などを手がけることで、会社の居場所を作っていきました。開発現場にヒアリングしながら、自社サイトで「開発日誌」みたいなコンテンツの更新もしていましたね。マニュアル制作も手がけるなど、少しずつ開発との接点が増えていきました。

―――その頃からゲームのシナリオの仕事も手がけられていますよね。

はい、最初は『英雄伝説III 白き魔女』のWindows版で、追加シナリオとスクリプトの実装を担当しました。それも「一週間でやれ」と言われたんですよ。先輩に聞いたら「スクリプトを覚えるだけで二週間かかる」と言われて、どうしようと。時間がないので効率化を突き詰めようと思って、「どうせシナリオを追加するならゲームの冒頭が一番効果的」「すでにあるスクリプトをコピペして改造しながら実装する」という方針で望みました。おかげさまで、なんとかなりました。

―――御社のゲームづくりを象徴するようなエピソードですね。

弊社は昔から少数精鋭主義で、一人でなんでもこなす「マルチタスク」人材が求められるんですよ。

―――ちょっと話がずれますが、90年代にゲーム会社の多くが急速に事業を拡大させていく中で、御社はずっと少数精鋭のゲームづくりを続けられていますよね。どのような経営判断があったんでしょうか?

今となっては想像するしかありませんが、もともと加藤(正幸、創業者)も大手メーカーから独立して弊社を立ち上げたんですよ。当然、大手ならではの非効率な部分や、フットワークの重さに不満を持っていたと思うんですよね。おそらく出発点はそこだと思います。

―――創業時の思いが今でも続いているということですか?

もちろん会社を大きくしたいという思いはあったと思います。ただ最近のゲーム開発は大作志向・分業志向が進みすぎている点もありますよね。弊社から大手に転職した人間から、「弊社にいた時が一番ゲームを作っている感じがした」と聞いたこともあります。今でも4−50人くらいの規模の会社なので意思疎通が早いし、みんなで意見を出し合えるフラットな企業です。実際『軌跡シリーズ』はそうした環境でなければ、生まれてこなかったと思います。なにしろ一昔前は「打ち合わせをしない」「仕様書を書かない」会社でしたから。そんなことをする暇があったら、スクラップ&ビルドを繰り返したほうが早いというのが共通認識でした。

―――今でもそうなんですか?

いや、さすがに最近はそれだと非効率になってきたので、ちゃんと打ち合わせをして、仕様書も書いています。それでも随所で当時の名残はありますね。それが可能なのも社員数がある程度絞られていて、コンセンサスが取れているからです。そのやり方でした作れないものをなるべく目指しています。

―――その一方で携帯電話向けの移植では、他社との提携も熱心にされていました。

本来であれば全部社内でやるのが一番かもしれません。でも移植をするよりは新作を作りたい人間ばかりですし、加えて人員は限られています。だったら本来のゲームづくりは社内できっちりやる。その上でIPの水平展開は他社様との提携でやる。そういう切り分けだと思うんです。実は『イース』はこれまで最も多くのプラットフォームに移植されたタイトルなんですよ。それができたのも、そうした戦略ゆえだったと思います。

―――2009年には一定の条件をみたせば、ほぼ全ての楽曲が使用料無料・許諾不要で使える「ファルコム音楽フリー宣言」も行われました。

これには音楽著作権をしっかり自分たちで管理したいという考えが背景としてありました。1987年には弊社のゲームミュージックを専門に扱うファルコムレーベルがキングレコードに設立されています。ゲームミュージックのレーベルとしては業界初の試みで、加藤が飛び込みに近い形でキングレコードに営業したという逸話が残っています。

―――当時、自分もアポロン音楽工業でレコードの営業をしていたので、よく存じあげています。

グッズ販売を行う「ファルコムショップ」なども直営店で手がけていました。他にアパレル展開などの構想もあったようです。とにかく自社版権をきっちり管理して、売上につなげていきたい。そのためにはインターネット上の音楽配信についても、本音を言えば規制したい。しかし動画サイトの高まりなどを受けて、すでに規制が不可能な状況になっていました。だったら逆に、自由に使ってもらえるようにしたほうが、自分たちにとってもユーザー様にとっても互いにメリットがあると判断したんです。発表した当日だけで三千件以上の問い合わせがありました。

―――なるほど、そういう経緯があったんですね。

ファルコムは普段「真面目」「堅実」というイメージがあるかもしれません。でも面白そうなことがあれば、突拍子もないと思われることでも、時には即やってしまうところがあります。実は入社後に誰がホームページを立ち上げたのが聞いたことがあります。そうしたら「加藤が仕事の合間に一人で作っていた」と教えられて驚きました。そういった社風なんです。

―――IP展開でいえば地上波でアニメ放送もされていましたね。

「みんな集まれ!ファルコム学園」ですね。第二シーズンまで放映されました。『英雄伝説 軌跡シリーズ』10周年記念作品として企画が進みましたが、自分でもまさか実現するとは思いませんでした。非常にコアな内容にも関わらず視聴者の皆さんからご好評いただき、第二期まで実現できたのは嬉しかったですね。



《黒川文雄》

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