追悼、ナムコ創業者 中村雅哉―「I Will」の人【Re:エンタメ創世記】 | GameBusiness.jp

追悼、ナムコ創業者 中村雅哉―「I Will」の人【Re:エンタメ創世記】

人は生まれた瞬間から100%の確率で死ぬ。それは逃れられない宿命だ。ただ、その宿命の時間は人それぞれに異なる。その人生に与えられた宿命も人それぞれに異なる。

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追悼、ナムコ創業者 中村雅哉―「I Will」の人【Re:エンタメ創世記】
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人間の宿命としての死

人は生まれた瞬間から100%の確率で死ぬ。それは逃れられない宿命だ。ただ、その宿命の時間は人それぞれに異なる。その人生に与えられた宿命も人それぞれに異なる。

中村製作所を経て、日本のみならず世界のゲーム産業に大きな足跡と影響とコンテンツを遺したナムコの創業者であり、バンダイナムコホールディングスの最高顧問・中村雅哉氏が2017年1月22日に91歳でお亡くなりになった。ゲーム産業に於いて大きな損失である。

日本のゲーム産業も勃興してすでに40年以上が経過する。

当時、ハタチだった青年は60歳、第一線で活躍した開発者、営業関係者、経営者が徐々にリタイアし鬼籍に入ってしまうことも無理もない。

同時に、それら産業を盛り立てた業界関係者のお話を十分に伺えなかったことを個人的に後悔している。今、改めて、それらの関係者たちが何を想っていたか、何をしたのかなどはもっと明らかになるべきではないかと思う。

ナムコ 穴田悟氏との出会い…

私とナムコの出会いは、以前こちらのコラムで書いたが、ナムコが出資、ギャガが製作した映画「カブキマン」でのプロモーションのことだった。

詳しくはそちらのコラムを参照いただきたいが、当時私が所属していたギャガ(当時はギャガ・コミュニケーションズ)はナムコから資本出資を受けていた。

中村社長(当時)は常にゲームや映画を愛し、若い経営者を応援するスタンスを持っていたと記憶している。ギャガとの出資関係をさらに強化するためか、社員の見識を高めるためかその点は今となっては確認のしようがないが、ナムコからギャガへひとりの社員が出向してきた。

穴田悟(あなださとる)氏。穴田氏は、私が部長だった宣伝企画部に所属することになった。

穴田氏はナムコで、和風の世界観をゲームに取り入れた『源平討魔伝』(1986年)のグラフィック関係を担当し、1988年に製作した映画『未来忍者 慶雲機忍外伝』(みらいにんじゃ けいうんきにんがいでん)の製作者のひとりであった。

エモーショナル・トイ 『励まし人形 りょうまくん』


穴田氏とは個人的にも仲良くしてもらった。

あるとき…
「黒さん、僕がナムコで創ったキャラクターなんです。観てください!」と言われたのが『はげまし人形 龍馬くん』だった。

穴田氏が憧れの偉人「坂本龍馬」をイメージして創ったキャラクターグッズだった。

腰に差した刀を引くと「小さな事にこだわってちゃいかんぜよ」とか「心はいつも太平洋ぜよ」という音声を発するもので、エモーショナル・トイと呼ばれていた。龍馬くんが、いつもそばにいて励ましてくれる。

僕が初めて「りょうまくん」をみたときの印象はナムコって変わったモノを創るなあというものだった。ナムコってキャパ広い会社だと。

ナムコ初の映画制作予算『未来忍者』の稟議書

ナムコのゲーム以外のコンテンツを語る上で忘れてはいけないのは、先に挙げた「カブキマン」よりももっと早くゲーム会社として映像製作に着手したことだ。

1988年に発表された『未来忍者』は北原聡氏の原案を基に、穴田氏らが製作したものだが、この映画を創るとき当時としては破格の予算を見込んで稟議書を提出したそうだ。

中村社長は提出された予算感と映画製作という点で判断しあぐねていたという。

たまたま、そのタイミングでコーエーの襟川恵子氏(現コーエーテクモ代表取締役)が来社、中村社長は率直にその件を相談したという。

「いや~襟川さん、困っちゃったよ。映像プロジェクトって言うチームを作って、開発を活性化させると思ったら、映画を創りたいから、製作費を出してくれって言われちゃったんだよ。どうしたらいいかな?」

すると襟川氏は

「雅哉さん、お宅の会社、儲かっているし、新しい事だし、多少お金が掛かっても良いんじゃない」と言ったという。

すると中村社長は映像プロジェクトのメンバーであった北原氏、穴田氏らに

「今貰っている給料が半分になっても、それでも創りたいか?」

すると映像製作プロジェクトチームのメンバーは「それでもやりたい」と即答し、中村社長もその熱意に絆(ほだ)され稟議を承認したという。

北原氏や穴田氏ら現場の熱意が中村社長を動かしたとプロジェクトでありコンテンツだった。

ちなみに監督を務めた雨宮慶太氏は「未来忍者」が映画監督としてのデビュー作となり、余談となるが、私が在職したギャガコミュニケーションズで「ゼイラム」(1991年)でも監督をすることになる。この「ゼイラム」は私が宣伝担当としてクレジットされた記念すべき作品となった。

根っからの起業家 「金魚すくい」からの転身

中村雅哉氏の父方の家系は鉄砲鍛冶だったという。

「時代の変化の中で、弱くなる商売(鉄砲鍛冶)はしたくない。自分は造船を勉強して、将来は海軍に入りたいと思っていたら、戦争が始まってしまって、楽しいはずの少年時代が何一つ楽しいことが出来なかったから、子供が楽しいと思えるような、そんな商売やりたい」と言っていた。

そこで、てっとり早くできそうということで、金魚を買って来て、神奈川県のデパートの屋上で「金魚すくい」を始めたのが中村製作所の開業初日だという。しかし、ある日の夜半から大雨が降って、朝になると金魚が全部流れて死んでしまったのを見て「金魚すくいはダメだ」と思ってやめたという。

そこで次に考えたのは……

「そうだ!デパートの屋上に5円玉を入れてパカパカと動く木馬を作ろう」というアイディアを思いついて始めたが、新しい遊びだったため、誰も遊んでくれなかった。そのため中村氏は自分の甥っ子に、お小遣いを渡し、毎日、遊ばせてお客さんたちの耳目を引くことに注力した。今で言うところの「行列商法」のようなものだろう。

しばらくすると、家族連れの子供から「面白そう、私もやりたい」という声が上がり始め、デパートの屋上の木馬はヒット、それをキッカケに、デパートの屋上に多種類のエレメカを置くようになっていったという。

中村氏はさらに業容を拡大しようとして三越デパートの門を叩く。

三越に行くと、たまたまエレベーターで三越の社長と出会った中村氏は
「蒲田の町工場で、こういうのをやっているんですが、屋上に置かしてもらえませんか?」
『そんなもん、うちにいるわけないじゃないか』

と言われて却って発奮したという…。

「よし!10年後には必ず三越に置かせてみせる」

10年後、その言葉は現実のものになり、三越の屋上で、お姫様が現われるような大きなジオラマのお城をデパ-トの屋上に作った。ちなみに三越への納入を記念して80年代前半のナムコの定休日を月曜日にしたのも三越への敬意の表れだったという。

“I will”の人 中村雅哉

中村氏の側近だった人に言わせると「中村さんのすごいところは過去の自慢話を一切しないことだった」。

成功した人は後付も含めて自分史を創る人がいる。私自身もたくさんそういう人たちを見てきた。

中村氏が大切にしていたモットーは「I will」(私は、そうします。)だったという、つまり「Must~しなければならないと言うような仕事はするな」とよく言っていたという。

中村氏は側近たちに「僕はね。こういうことをやりたいんだよ。ああいうのが良いなぁ」という未来志向の話を良くしていたという。

ビデオゲーム産業を黎明期から牽引した巨星墜つ、ひとつの時代を創った経営者の歴史と時代は静かに幕を閉じた。未来を見続けた故人の冥福を改めてお祈りしたい。

(C)NBGI

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■著者紹介
著者:黒川文雄(くろかわふみお)
プロフィール: 1960年、東京都生まれ。音楽ビジネス、ギャガにて映画・映像ビジネス、セガ、デジキューブ、コナミDE、にてゲームソフトビジネス、デックス、NHN Japanにてオンラインゲームコンテンツ、そしてブシロードにてカードゲームビジネスなどエンタテインメントビジネスとコンテンツの表と裏を知りつくすメディアコンテンツ研究家。コラム執筆家。アドバイザー・顧問。黒川メディアコンテンツ研究所・所長。コンテンツとエンタテインメントを研究する黒川塾を主宰。『ANA747 FOREVER』『ATARI GAME OVER』(映像作品)『アルテイル』『円環のパンデミカ』他コンテンツプロデュース作多数。
《黒川文雄》

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