【DiGRA年次大会】福岡ゲーム産業の歴史、そして産官学連携のこれからとは?DiGRA JAPAN基調講演レポート | GameBusiness.jp

【DiGRA年次大会】福岡ゲーム産業の歴史、そして産官学連携のこれからとは?DiGRA JAPAN基調講演レポート

DiGRA JAPAN年次大会で1月4日、基調講演「デジタルゲームのこれまで、そしてこれから」が開催されました。

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DiGRA JAPAN年次大会で1月4日、基調講演「デジタルゲームのこれまで、そしてこれから」が開催されました。
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DiGRA JAPAN年次大会で1月4日、基調講演「デジタルゲームのこれまで、そしてこれから」が開催されました。

講演はパネルディスカッション形式で行われ、遠藤雅伸氏(モバイル&ゲームスタジオ、宮城大学客員教授)のモデレートのもと、レベルファイブ日野晃博氏、サイバーコネクトツー松山洋氏、ガンバリオン山倉千賀子氏が、自身のゲーム原体験も交えつつ、福岡ゲーム産業の歴史について語りました。

1980年前後からのマイコンブームは、全国で星の数ほどのマイコン少年(少女)を排出。そこからソフトハウスが乱立し、徐々に産業化されていきました。福岡はその中でもシステムソフト・リバーヒルソフト・テクノソフトなど、さまざまなソフトハウスを排出。今では福岡ゲーム産業振興機構を旗印に、十数社の開発スタジオが活動する、日本でも有数のゲーム産業クラスターとなっています。

一方で基調講演に登壇した日野氏、松山氏、山倉氏はいずれも1970年前後生まれの、いわゆるゲームクリエイター第二世代。モデレータをつとめた遠藤氏(1959年生まれ)の代表作『ゼビウス』『ドルアーガの塔』を子ども時代にゲーセンで体験し、ファミコンを遊んで育った世代になります。この世代間ギャップもまた、本セッションの隠れたテーマとなっていました。

■『ゼビウス』遠藤氏の司会で第二世代が福岡ゲーム産業の歴史を語る
日野氏は「個人宅のガレージみたいな場所にテーブル筐体が設置され、そこで『スペースインベーダー』を1プレイ50円で遊んでいた」と、ゲーム原体験を語りました。すかさず「それ、日野さんの実家の周りだけじゃないですか!?」とツッコミを入れた松山氏も、実家が喫茶店を経営していたことから、店内にテーブル筐体のゲーム機があったと述懐。当時は日本全国で同じような光景が見られたことでしょう。

また当時は8ビットのホビーパソコン戦国時代。雑誌「初歩のラジオ」が愛読書だったという日野氏もまた、パソコンでプログラミングに熱中していたと言います。一方、佐世保で少女時代を送った山倉氏は、デパートや友人宅でパソコンを見て「キーボードとかついていて、かっこいい・・・」と感じていたとか。この時点で既に、ゲーム開発者の素質があったのかもしれません。

松山氏も「我々の世代のゲーム原体験といえば、ほとんどがファミコンやゲーム&ウオッチ。クラスで1-2名くらい、ちょっとマニアックな少年がいて、パソコンゲームを楽しんでいたのではないでしょうか」とコメント。これに対して日野氏は「パソコンゲームでは東京の日本ファルコム、福岡のシステムソフトが、ファミコンとは違った高クオリティの作品を排出していた」と語りました。同じような原体験を持つ読者も多いのではないでしょうか。

そんな三名がゲーム業界に飛び込んだのは、1990年代半ばのPS時代。一番早く独立したのは松山氏で、1996年にサイバーコネクトを起業(2001年にサイバーコネクトツーに社名変更)。日野氏はシステムソフト・リバーヒルソフトを経て、1998年にレベルファイブを起業します。山倉氏もゲームショップ店員・テクノソフトを経て、1999年にガンバリオンを創業(2001年に福岡市に移転)しました。

一方でゲーム産業クラスターとしての福岡市を有名にしたのが、この三社で2003年に開催されたゲームイベント「GAMEFACTORYFUKUOKA」です。2004年には企業間の任意団体としてGFFが新たに発足し、2005年には福岡ゲーム産業振興機構へと発展しました。現在もGFFの中核は三社が担っています。

そんなわけで、福岡ゲーム産業は80年代のマイコンブームで誕生し、PCゲームの助走期間を経て、PSの市場拡大と共に成長。2000年代の「ゲーム離れ」という逆風の時代に、産学官の連携でブレイクしたと整理できるかもしれません。おもしろいのは、福岡には東京・大阪と異なりアーケードゲーム開発を手がける企業が誕生しなかったこと。この違いはどこから生まれたのか、今後の調査研究が待たれるところでしょう。

■日本初のゲームによる産官学連携の過去・現在・未来
ここから議論は福岡の魅力、そして産官学連携の成立へと移っていきました。福岡に拠点を構える理由について、三名は異口同音にメリットを強調。「ストレスが少なく、通勤で困らないぶん、開発に集中できる(日野氏)」「起業時にゲーム会社が関東と関西に集中している理由を研究した。広告代理店やテレビのキー局の存在はわかるが、ディベロッパーにはメリットが薄い(松山氏)」「もともと福岡出身で、佐世保で起業したときも、福岡移転が目標だった。福岡は九州中の人材が集まる街(山倉氏)」などなどです。

またアジアの玄関口という地理的特性から、外国人雇用が進んでいるのかと思いきや、松山氏が目から鱗の見解を語りました。「もちろん、それもあると思います。ただ、大前提として僕らがアメリカの都市に思い入れがないように、日本で働きたい外国人は日本が好きなんであって、別に東京じゃなくても良いんですよ。」同じ日本なら住みやすい街の方が選ばれるのが道理。同社では福岡本社と東京スタジオがありますが、ほとんどの外国籍開発者は福岡勤務を選ぶそうです。

もっとも2003年の「GAMEFACTORYFUKUOKA」開催前夜は、優秀な人材が集まりにくいという課題がありました。福岡にゲーム会社が存在し、地元で就職できることが知られていなかったのです。松山氏も全国の大学・専門学校を回り、会社説明会を行うほどでした。それに対して日野氏が「大手からこぼれた人材を狙うよりも、大々的にイベントを行って、地元にアピールしたほうがいい」と提案。これに佐世保から福岡に移転してきたガンバリオンがジョイント。合同会社説明会的なノリから、次第にゲームイベントとしての「GAMEFACTORYFUKUOKA」の骨子が固まってきたそうです。

幸いにも2003年のイベントは大成功。もっとも翌年も同じイベントをしたのでは、あきられてしまいます。そこで単発イベントではなく、組織固めを行って、福岡のゲーム産業をどのように盛り上げていくか、戦略の練り直しが行われました。そこから「日本発の産官学連携」というキーワードが浮上。松山氏は「企業だけで回していくのは大変なので、最初から行政を巻き込んでいこうと考えた」と語ります。

「産業側にビジョンがなければ、行政側も入りにくいと後から言われて、なるほどと思いました。足を引っ張るのではないかと、行政側も遠慮があったようです(山倉氏)」「学校・行政と企業の違いはプロデューサーの有無。企業側がメッセージを伝えるから、行政側も乗ってくれる(松山氏)」。こうした取り組みの結果、今では地元を越えて、全国から優秀な人材が集まるようになりました。こうしたコメントに耳が痛い思いをした教育・行政関係者も少なくなかったようです。

最後に今後のビジョンについて三社から語られました。日野氏はレベルファイブがマンガ・アニメなどとのクロスメディア作品が得意だと前置きした上で、最近では業界の成熟が進んで、斬新なゲームが出にくくなっていると分析。「今後は大学の最先端技術を用いた、新しいクロスメディア作品に挑戦していきたい。九州大学のすごいところを、どんどん引き出して、新しいゲームに挑戦したい」と抱負を語りました。

松山氏は、サイバーコネクトツーは「自分たちがおもしろいと思うコンテンツを作っていく会社。おもしろければ映画も作るし、売れているジャンルでも、自分たちがおもしろいと思わなければ、やらない」と説明し、新たに製菓メーカーとのコラボレーションなども視野に入れているとコメント。地元の盛り上がりを感じてもらえるようなもの、街おこしにつながるようなもの思索中と語りました。

山倉氏は、ガンバリオンは「ゲームを丁寧に作り続ける職人集団」と前置きし、日本の福岡で、ガンバリオンにしか作れないゲームを、今後も作っていきたいと語りました。「技術・感性・芸術を取り入れつつ、世界に一つしかないものを作り続けられる自分たちでありたい」とのことです。

ゲームコンテストやインターンシップなどを通した産官連携、シリアスゲームプロジェクトなどを通した官学連携に対して、大学の研究をゲーム作りに活かすとう、本来の意味での産学連携は、福岡といえども取り組みが始まったばかり。レベルファイブでも「ロボット技術をはじめ、過去に何度か取り組んだが、まだ形になっていない」といいます。

これについて年次大会の実行委員長を務めた九州大学の源田悦夫氏も「いろいろな課題があるが、ぜひ一緒に乗り越えて、進めていきましょう」とコメント。産学官連携の場を提供することを目標とする、DiGRA JAPANの基調講演としてふさわしい締めくくりとなりました。
《小野憲史》

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