開発チームも一度死んで強くなる『ドラゴンボールオンライン』(2) | GameBusiness.jp

開発チームも一度死んで強くなる『ドラゴンボールオンライン』(2)

日本と韓国のチームのフュージョンによって誕生した『ドラゴンボールオンライン』。しかし、日の目を見るまでには多くの失敗と挫折がありました。原作のように、試練を超えるたびに強くなるチーム。その裏側を聞きました。

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日本と韓国のチームのフュージョンによって誕生した『ドラゴンボールオンライン』。しかし、日の目を見るまでには多くの失敗と挫折がありました。原作のように、試練を超えるたびに強くなるチーム。その裏側を聞きました。
  • 日本と韓国のチームのフュージョンによって誕生した『ドラゴンボールオンライン』。しかし、日の目を見るまでには多くの失敗と挫折がありました。原作のように、試練を超えるたびに強くなるチーム。その裏側を聞きました。
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日本と韓国のチームのフュージョンによって誕生した『ドラゴンボールオンライン』。しかし、日の目を見るまでには多くの失敗と挫折がありました。原作のように、試練を超えるたびに強くなるチーム。その裏側を聞きました。

■完成に至るまでの2回の試練

―――プロトタイプの期間はどれくらいでしたか?

玉舎: 2004年の10月から開発がはじまって、プロトタイプが完成したのは約半年後の2005年の4月です。その間は会社作りやワークフローも含めて、本当に日韓のスタッフがみんなで協力して作り上げました。

―――一番大変だった点は何ですか?

玉舎: やはり最初は日本と韓国でスタッフのチームワーク作りに苦労しましたね。正直にいうと、プロトタイプの開発がスタートする前に開発チームを2回解散したんです。それで3度目の正直で、次に解散したらプロジェクトをたたむ覚悟で挑んだんです。なにより方向性を定めるまでが大変でした。言葉も違えば、みんなやりたいことも、経歴もバラバラで。その中でどこに向かうのか、最初はしっくりいかなかった。

高宮: 最初は自分も遠慮がありましたね。お互いに討論というか、気持ちをぶつけ合うところまで、ふみこめていなかった。

水島: 僕等もオンラインゲームの開発知識があんまりなかったので、そこでの誤解などもいろいろあったし。韓国スタッフも原作への理解がいまいちだったりして。そういうのが最初はかみ合わなかった。

―――たしかに、原作付きのMMORPGという点でも異色ですね。

水島: ええ。ゲームと原作のバランスをどうとるかが重要でした。プロトタイプを作ってみて初めて、うまいバランスが見つかったという感じです。

高宮: プロトタイプはゲーム開発もさることながら、日本と韓国のスタッフが、お互いに踏み込んで話せるような、一体になれる環境を作りあげる期間だったように思いますね。向こうに一緒に住んで、そこでお互いのつきあい方が解り、距離感も縮まった感じがします。

―――文化的な違いを感じたことはありますか?

水島: たとえば韓国はみんなで食事に行く習慣があって、そこも最初は戸惑いました。「ずっと会社で一緒なんだから、食事くらい一人で食べさせてよ」なんて思ってました。でも、その中で相互理解が深まるんだなというのもわかりました。あとはお酒も死ぬほど飲んで。向こうに行くまではほとんどお酒は飲みませんでしたが、今では立派な酒飲みです(笑)。

高宮: 一緒にカラオケに行って日本の歌を歌ったりしましたね。

玉舎: そういうチーム作りをしないで、いきなり日韓で大作MMORPGを作るのは無理だと思います。日本人と韓国人ってとてもよく似ているんですけど、でも明らかに違っている部分があって、その違いが共同プロジェクトにおいては致命的な問題に発展することが多いように思います。

高宮: そうして完成したプロトタイプをもって、みんなでバンダイ本社にプレゼンに行ったんです。

玉舎: そのときは逆に韓国スタッフが全員日本に来て、みんなで会議室にPCを持ち込んでLANを組んで、偉い人たちの前で、総勢15〜6名でデモプレイをしたんですよ。「これがオンラインゲームです!」って。あれは今考えると、おかしな光景でしたね(笑)。


―――本制作に入ってからは、どんな開発体制でしたか?

玉舎: 本制作からは日本のスタッフも韓国を引き揚げて、東京とソウルで分担作業になりました。ただし主要スタッフは日本と韓国を行ったり来たりで、日韓半々の生活をしています。また本制作と平行して、開発プロセスも試行錯誤しながら作り上げていきました。これも大きな挑戦でした。今ではアセット管理用に「PERFORCE」というツールを使って、共通のデータベースサーバを構築し、開発スタッフ全員がすべてのリソースや企画書などにアクセスしたり、ファイルのやりとりができるようになっています。とにかく最初に土台部分をしっかり固めて、後は実際に作っていきながら、整備・改善していったという感じですね。

―――距離的な問題は感じませんか?

玉舎: それは特にないですね。羽田から金浦まで飛行機で2時間ですし、ちょっとしたことなら、テレビ会議でミーティングできます。

高宮: 国内出張とあまり変わらないですね。 

玉舎: 大阪出張の方が新幹線に乗り慣れていないので、逆に遠く感じるくらいです(笑)。

―――韓国の開発者とうまくつきあうコツはありましたか?

玉舎: 僕等は日本から韓国を管理しようといった考えではないんです。こういう日韓プロジェクトって、ともすれば日本人が韓国人を、または日本企業が韓国企業をコントロールするような、上から目線の話になりがちだと思います。私達はそうではなくて、日韓両方のスタッフがいないと『ドラゴンボールオンライン』は開発できないという前提に立って、相互が本当に対等な関係でやっています。私も半分韓国、半分日本みたいな生活をしていますが、韓国にいる時は韓国人モードで生きています。経営についても、彼らと一緒に日々悩みながら進めています。

―――逆にク・ヒョンヌさんはいかがですか?

ヒョンヌ: はい、私はさっきも言ったように2006年から加わりましたが、玉舎さんの考え方が明快だったので、よかったです。NTLは日本と韓国の開発力がホントにうまく混じり合っていると思います。国籍の違いや言葉の違いを不都合だと感じたことも一度もありません。お互いが強い信頼で結ばれていると思いますし、韓国の一般的なオンラインゲームの会社でも、スタッフ同士がうまく融合している会社はそれほどありません。

水島: ヒョンヌさんも、日本語がどんどんうまくなりましたよね。僕等は韓国語が片言しかしゃべれませんが、逆に韓国のスタッフがどんどん日本語がうまくなっていくんです。韓国では社員がボランティアで早朝に日本語教室なども開いてくれています。コミュニケーションがやりやすくなってきましたね。

ヒョンヌ: NTLには日本のアニメやコンソールゲーム、日本文化が好きな人がいっぱいいます。私も子供の頃に読んでいた「ドラゴンボール」をオンラインゲームにすることに意義を感じて加わったので。それもスタッフ間の接着剤になっていると思います。

―――言葉は何語を使っているのですか?

玉舎: 韓国にコミュニケーションサポートという専任で通訳・翻訳をするスタッフが2名います。開発文書は、日本側は日本語、韓国側は韓国語で作成して、読むときはお互いに翻訳ソフトを使っています。専門用語をどんどん登録して辞書を鍛え上げているので、翻訳精度はかなり高いですね。

高宮: それに資料を作る時も、曖昧な表現はできるだけ使わないとか、名詞は英文で書くとか、なるべく翻訳されやすい文章を書く癖がつきました。

玉舎: コミュニケーションのミスも、初期はかなりありました。そういう中で人間側がどうやったらミスのない言葉や文書になるかも学んでいきましたね。

―――韓国側ではどうですか?

ヒョンヌ: 会議などでは、コミュニケーションサポーターがうまく通訳してくれています。若干時間はかかりますが、仕事において不便を感じたことは一度もないですね。

水島: あとは日本語、英語、韓国語が混じった、NTL独自のコミュニケーション言語みたいなものがあって、ふだんの他愛もない会話などは、不思議にわかりあえるんです。

玉舎: コミュニケーションをしたいという気持ちが大事。相手に気持ちを伝えたい、プロジェクトをうまくやりたいという気持ちがあって、一生懸命コミュニケーションをしようとする。そういう一生懸命さが、お互いに通じ合えるための基盤なんじゃないかと思います。 

―――では、比較的開発はスムーズに進んだのですね。

玉舎: 初期に開発チームの2回の解散という第1の壁がありましたが、それ以後は、順調にアルファ版の開発まで進んでいきました。ベータ版の開発中に、2つめの壁にぶつかったんです。

―――それは何ですか?

玉舎: 「ワールドオブウォークラフト」(WoW)(注1)がリリースされ世界中で大ヒットしたんです。あれは、いろいろな意味で衝撃でした。

(注1)ブリザード・エンタテインメント(現アクティビジョン・ブリザード)が開発・運営しているMMORPG。同社の人気RTS「ウォークラフト」シリーズの世界観を受け継いでいる。全世界で1000万人以上の有料アカウントを集め、世界で最も成功したMMORPGといわれている。

―――韓国でも大ヒットしましたね。

玉舎: ええ。もともと我々は、オンラインゲームの本場である韓国で2007年にサービスインすることを目標に、開発を進めていました。全世界で通用するものにするためには、まずは本場で認められねばならないだろうという思いで。もっとも、競争も世界一激しい韓国で成功するのは、それだけで非常に高いハードルなんですけどね。でもはじめに一番厳しいところでスタートして、そこで叩かれてまくって堅牢になるというか。「ドラゴンボール」的にも強くなるためには、強いやつと戦わないと駄目だろと(笑)。

水島: そこで死にかけると、強くなれるんです(笑)。

玉舎: でも「WoW」は規模も完成度もあまりにもずば抜けていて、韓国のMMORPG市場を席巻し、困ったことにパラダイムシフトが起きてしまいました。実際に韓国で2005〜06年に発売された、従来の常識的な規模や完成度で作られていたMMORPGは、ことごとく討ち死にしてしまいました。そういう様子を横目で見ながら、当初想定していた『ドラゴンボールオンライン』のレベルではまったく太刀打ちできないだろうと考えました。それで開発規模を当初予定の約2倍に、βサービス開始も07年から09年に延期したんです。

―――それは大変でしたね。というか、よく承認されましたね。

玉舎: ええ。コンソールゲームで2年延期、開発規模2倍というのは、なかなかないと思います。プロジェクトが中止になってもおかしくない。ただ「ドラゴンボール」の世界観でMMORPGを作って全世界に展開するという、プロジェクトの向かう方向性は間違っていないという確信はありましたし、バンダイコリアさんや集英社さんを含めて、プロジェクトを支援してくださる皆様が、本プロジェクトに対して大きな可能性を感じていただけたお陰で、今日があると思っております。

―――2年かかった理由は何ですか?

玉舎: コンテンツの規模と、クオリティ、それからサービスイン後の安定性ですね。これらを向上させるのに、2年かかりました。
《土本学》

メディア大好き人間です 土本学

1984年5月、山口県生まれ。幼稚園からプログラムを書きはじめ、楽しさに没頭。フリーソフトを何本か制作。その後、インターネットにどっぷりハマり、幾つかのサイトを立ち上げる。高校時代に立ち上げたゲーム情報サイト「インサイド」を株式会社IRIコマース&テクノロジー(現イード)に売却し、入社する。ゲームやアニメ等のメディア運営、クロスワードアプリ開発、サイト立ち上げ、サイト買収等に携わり、現在はメディア事業の統括。

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